正倉日記

 

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十村安藤家の多門

2021.12.7

十村安藤家の多門

十村安藤家の多門1

十村安藤家の多門1

■十村安藤家の多門・砺波市木下
 
安藤家は砺波郡宮丸村にあって、初代次郎左衛門の寛永12年(1635)から10代次郎四郎の明治4年(1871)まで236年間にわたって加賀藩の御扶持人十村役を勤め、砺波郡の民政に貢献した名家である。屋敷は約4ヘクタールで濠をめぐらせ、正面にこの多門があった。時代の変化に伴い、明治23年(1890)に金沢へ移住。残された建物の一部は同村の西方寺の庫裡として移され、また権勢の象徴でもあった多門は、隣村小杉村の雄川家へ引き取られた。さらに昭和47年、その雄川家も東京へ移住されたため、多門も家屋とともに取り壊されることになったところ、現在の所有者でもある薮田氏によって現地に移築された。その際、後々の保存面を考慮して茅葺きから瓦屋根に改められた。
 
建物は、幅7間半(のびがあるので詳しくは47尺5寸)、奥行2間(12尺)、左手2間(13尺)と右手3間半(21尺5寸)は納屋形式となっており、壁は白壁、腰は横羽目板で覆ってある。ヌキには元文3年(1738)に藩の役人家来17人を周辺の村役人宅へ分宿させた覚えが墨書きされていた。恐らく17世紀末の建築とみられ、由来のはっきりした民家の多門としては、県内でも最古のものといわれる。
(『十村安藤家と多門』より)
 
 
国道156号線、油田交差点を西へしばらく行くと、木下公民館、新明社の近くに十村安藤家の多門があります。会社事務所の隣にあるその門は、時代劇に登場する奉行所の門のように堂々とした構えです。私はこの門の存在を知ることで十村、多門というコトバを知りました。^−^
 
十村(とむら)…加賀藩から出された農政制度。数十か村を統括する農民身分の最高職。武士の特権である苗字帯刀を許されることもあった。加賀藩や富山藩の農政実務全般を担当し、毎年の年貢微収や洪水その他災害への対処、新田開発の促進に主導的役割を果たした。また、地域農村の事情に明るい名望家であり、犯罪の取り締まりや藩と組下農民との関係調査など、地域社会の保全にも貢献した。
 
多門(たもん)…長屋門の一種で、両側に納屋があり、それをつないだ屋根の下に梁を冠木で受けて門とした構造。納屋は番所や農具置き場として利用された。
 
 
「砺波地方の農家の住居は、十村の家がモデルになっていて、家の周りに庭や塀をめぐらせ門を付けるのがステータスだった、そしてこれを目指して当時の人は頑張った。」と以前聞いた話を思い出しました。
今や家を建てるとき、多門もセットで造らなきゃ!と考える人はいないと思うけど、最近の砺波地方の住居モデルはいったい何なのかな?と疑問に感じました。


【2011年12月21日17:42 「ふるさと学芸員の小窓」より】


十村安藤家の多門2

十村安藤家の多門2