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U−B中世の砺波『中世砺波の信仰と文化』4

2014.9.4

4中世の文化財

図

 中世の様子を直接今に伝える遺跡・遺物は、砺波にも多く残っている。雨風に晒され、崩れそうなその痛ましい表情を通し、数百年前の歴史を我々に語る石仏。この地の人々の信仰の深さを今に伝える仏像群・・・・・・。ここでは、砺波の中世文化財の内のいくつかを取り上げ、紹介してみよう。

4中世の文化財「石造物」

 石造物の中で今でも多く残っているのが、五輪塔(ごりんとう)である。五輪塔の多くは領主層の手によって建てられたと考えられるが、先祖の供養を目的としたり、墓石として作られたと考えられるが、先祖の供養を目的としたり、墓石として作られたものである。(図1)のように、下部から地・水・火・風・空の各輪より構成され、一基をなしている。砺波市域の五輪塔は、ほとんどが室町期から戦国期のものと推定され、材質は砂岩が主である。また、数は少ないが、板碑(いたび)も見られる。これも卒塔婆(そとうば)の一種として生まれた供養塔であり、(図2)のように、身部には仏像を表す梵字が刻まれている。写真は砺波市秋元の法泉寺の板石塔婆であり、中央に密教における金剛界の大日如来を表わす「バン」という梵字が彫られている。

 また、薬勝寺内には、開山の墓と推定される宝篋印塔が存在する。宝篋印塔は、その内部に宝篋印心呪経(ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことから、その名がついたという。特に薬勝寺の宝篋印塔の場合、この塔を囲むように五輪塔・卵塔が一群をなしている点が注目される。この他、最近の石仏調査によって、中世石仏の存在も確認されている。たとえば、柳瀬の如来形仏4体・太田の万福寺の如来形仏などがあげられる。さらに、南般若・東般若・庄下などの地域にも中世石仏が残っている。

 以上の中世石造物は、(図3)からわかるように、分布地域からいえば、もとの徳大寺家領般若野荘域に多く、それと並んで中世の油田条であった油田地区、鷹栖の小倉の土居付近におおく分布している。

4中世の文化財「仏像彫刻」
砺波市の中世文化財

砺波市の中世文化財

 富山県は“真宗王国と称されるほど、浄土真宗の寺院が多い。この信仰の中心となる仏が阿弥陀仏であるため、阿弥陀如来像が今でも多く残っている。

 砺波市大窪の常福寺の阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)は、鎌倉時代初期のものとされ、湛慶(たんけい)の作と伝えられる。寄木造りで肉身は漆箔(しっぱく)、截金文様(きりがねもんよう)を施し、肉髻(にくけい)・白毫(びゃくごう)は水晶をはめ込んである。この像は、現在、国指定重要文化財に指定されている。この他、平安〜鎌倉期の作とされる荒高屋(あらだかや)の正念寺阿弥陀如来像や、やはり同時期で、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる厳照寺の阿弥陀如来像も素朴な威厳がある。

 さて、民衆の願いを最もよく聞き入れてくださる仏様として信仰が厚かったのが、菩薩である。万福寺の木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりつぞう)が、その代表的なものである。室町時代初期の作とされ、桧の一木造(いちぼくづくり)であるが、右手に錫杖(しゃくじょう)・左手に宝珠(ほうじゅ)を持ち、額には水晶の白毫(びゃくごう)がはめてある。昔から歯痛の時に、豆を煎り針にさして供えると、効(ききめ)があると伝えている。

 中世における禅宗の発展とともに、禅宗寺院において師の肖像を安置するための、頂相(ちんぞう)の製作も始められている。先に紹介した薬勝寺にある桂岩運芳の肖像彫刻は、この典型であり、室町期のものと推定されている。材質は桧で、全身に漆をおき、玉眼がはめ込まれていて、運芳の厳しい人間像をリアルに表現している。

4中世の文化財「絵画」

 絵画では、千光寺所蔵の絹本著色両界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくりょうかいまんだらず)があげられる。両界とは金剛界と胎蔵界のことで、密教の悟りの中の「智」を金剛界が、「理」を胎蔵界が象徴するという。鎌倉時代の作品で、岩絵具で着色されている。作品の精緻(せいち)さ、鮮やかさに、当時の人々の信仰の厚さがにじみ出ているような気持がする。

【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

  • 常福寺の阿弥陀如来立像

  • 常福寺の阿弥陀如来立像

    万福寺の木造地蔵菩薩立像