6-3砺波野の相撲の中心地 出町
2015.2.5
小柳芳太郎(安ヵ川芳太郎)
小柳芳太郎(砺波市増山 個人蔵)
大相撲のあと、郷里へ帰って地方相撲で長く大関として活躍した 小柳芳太郎(安ヵ川芳太郎)
明治11年(1878)7月1日、増山村安ヵ川善太郎二男に生まれる。小さい頃から力が強く、明治30年(1897)に19歳で志を立てて東京大相撲の高砂部屋に入門した。 明治38年には入幕を果たし、同40年に前頭二枚目まで上がり将来を嘱望されたが、けがと病気のため徐々に下がり、大正初年には郷里へ帰った。
明治42年には故郷の増山神社に石灯籠一対を寄付した。
地方相撲で大関として活躍し、出町で料理店を開くかたわら、後進を育てることに力を尽くした。
その後、能登輪島へ居を移し、昭和21年(1946)4月20日死去した。享年 69歳。
小杉町十社宮での相撲番付
大正11年8月
(南砺市井波 瑞泉寺蔵)
「大関出町 小柳芳太郎」とある。
(『加越能力士大鑑』)
小柳芳太郎(文中では「吉太郎」とあるが、吉は芳の誤植であろう)の細かい履歴を書き上げている。
小柳が東の前頭に見える番付
明治36年5月15日付新聞
小柳が、富山出身の梅ヶ谷・太刀山・緑島・玉椿らとともに大相撲で活躍していたことが分かる。
のちに梅ヶ谷・太刀山は横綱に、玉椿は関脇に、緑島は小結になり、東京大相撲は一時越中出身力士で独占した観があった。
【砺波市立砺波郷土資料館 第30回郷土先人展「砺波野の草相撲の力士たち」2007年より抜粋】