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3近世 御囲場−金屋・中野・戸出−(その1)

2015.2.5

御囲場

藩の用材を一時的に保管した
御囲場(おかこいば)

えどじだいのはじめごろは城下町の建設や道橋の普請などのために多くの木材を必要としました。そのため、庄川上流の五ヶ山や飛騨から良材を伐り出して、庄川(当時の主流は千保川)に流して運びました。
藩では、金屋と中野・戸出に、流した木材を一時的に保管する「御囲場」を設け、そこに番人も配置して管理しようとしました。しかし、洪水によって流される木材も多く、盗難防止に苦労しました。
また、砺波平野を洪水から守るために松川除堤防の構築をはじめ治水対策がすすんだことにより、千保川が水量が減少し、御囲の機能が徐々に失われるようになりました。

御囲場関連年表

 年 西暦御囲事柄出典 
文禄3年  1594 金屋 このころすでに金谷に藩の御囲場があったことをしめす利家の文書がある  五ヶ山高桑宅左衛門留書
 寛永10年 1633   庄川の流木について藩からさまざまな取締り事が申し渡される  金子文書
寛文4年 1664 金屋 このころ、金屋御囲に材木小屋がつくられる 金屋岩黒村御用留
寛文6年 1666 戸出 戸出に七拾間、三拾間の大きさの御囲場があったとの記録がある 菊池旧記
寛文10年 1670   加賀藩、松川除の築堤に着手、千保川の流量が徐々に減少する   
延宝3年 1675 金屋 金屋御囲番人に在所の権兵衛が召し抱えられる  金屋岩黒村御用留
貞享3年 1686 金屋 金屋御囲場に材木蔵が作られる  吉井文書
貞享4年 1687 戸出 戸出御囲の材木が減少したため、戸出村領御囲跡の一部高8石4斗を新開する  
元禄元年 1688 金屋 金屋材木御囲場番人の小屋を囲の中へ移す 吉井文書
元禄16年 1703 金屋 金屋御囲場の材木が減少し空地が多くなったので新開を願い出許可される 吉井文書
正徳4年 1714   弁財天前松川除築堤工事完成、千保川の流量が減少  
享保3年 1718 中野 中野村御囲之内の空き地に新開を申し付ける 金子文書
元文4年 1739 金屋 今石動奉行所、金屋御囲の老朽化した木蔵の再建を関係村に命ずる 金屋岩黒村御用留
文化年間 1804- 金屋 松川除地内に金比羅社を建て、金屋岩黒村、青島村など木呂稼業者の守護神とする 庄川町史年表
文政10年 1827 中野 中野村御囲番人小兵衛が2石5斗の新開を願い出る 中野村文書
明治元年 1868   廃藩により規制されていた伐木・販売が自由になる  

庄川原流木二付申渡条々写 申渡書
富山県指定文化財 金子文書(個人蔵)

富山県指定文化財 金子文書(個人蔵)

寛永10年(1633)に、藩から流木検分役に対して出された申渡書である。

この文書によれば寛永10年に藩では、金屋村九左衛門ら7人を流木検分役とし、流木があった場合に川原に出役させ、長さ6尺(約180cm)、まわり3尺(約90cm)以上のものは御用木として極印をうち、その村々に預け、後に材木小屋に運ばせ、その内容を藩に報告させる。
材木検分役には役人のしるしに鍬を与えるが、流木のあるとき出役しないと過怠銭が課せられる。
沿岸筋の農民はよき・まさかりを入れた跡のない木は自由に拾ってよい。
御用木を隠したり、盗み取ったものを見つけ訴えでたものには褒美を与える。
井波町の町人が運上銀を上納するから流木拾いの権利を与えてくれと願い出ているが許可をせず、沿岸農民に流木拾いを約束すると述べている。

御鷹野道 橋材木差出申渡書
金屋岩黒村文書(砺波市庄川図書館)

金屋岩黒村文書(砺波市庄川図書館)

〇この文書は、殿様が鷹狩りにおいでになるので、道路や橋の普請をするから、奉行石野五兵衛・毛利太左衛門の申し付けによって、庄川流木の内の御用以外の材木を渡すように、流木検分役である金屋村九左衛門と知ろう左衛門に命じたものである。


【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】