3佐藤家の成長
2015.1.30
佐藤家の成長
明治2年 東開発村における持高構成
佐藤家は、明治2年には、東開発村で14石1斗(9.4反)を有している。これは村内では9番目に多い高である。(当時の名は「助三郎」であった)
明治19年の富山県内の「大地主及営業者調」には、砺波郡で265名の名があがっているが、助九郎の名はない。
富山県内で、多額の直接国税を納める者のなかから1名の貴族院議員を選出するために、明治23年から作成されるようになった「貴族院多額納税者議員互選名簿」では、明治33年のものから助九郎の名が見られる。同年の助九郎の納税額は3195円であった。明治44年には9046円となり、名簿に記載されている15人の中で最も多くの納税額になる。
その後も助九郎の納税額は増え続け、大正7年には9657円となった。その内訳を見ると、地租(所有地の面積に応じた税)は2503円で、その所有地は県内の29か村にわたっている。
大正13年の農務省による全国の50町歩以上の大地主の調査によると、助九郎は139町4反の大地主であった。
助九郎の生業は土木請負業であるが、「互選名簿」から見るかぎり、明治33年には地租と所得税・営業税の割合は減少し、地租の割合が増え、明治39年には地租が大きく上回る。しかしながらその後、地租はほぼ横ばい状態で推移し、大正7年の時点では地租対所得税・営業税の比率は約1対3となり、土木請負業の方が地租をはるかにしのいでいる点が注目される。
佐藤家の直接国税納額の推移
明治36年 | ||
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互選人氏名 | 納税額(円) | |
1 | 馬場 道久 | 5,119 |
2 | 高広 次平 | 2,766 |
3 | 浅野 長太郎 | 2,322 |
4 | 米沢 紋三郎 | 2,246 |
5 | 佐藤助九郎 | 2,245 |
6 | 平能 五兵衛 | 1,711 |
7 | 木津 太郎平 | 1,648 |
8 | 井上 清治 | 1,596 |
9 | 佐藤 仁左衛門 | 1,496 |
10 | 内山 松世 | 1,415 |
11 | 菊野 久太郎 | 1,366 |
12 | 岩脇 孫八 | 1,358 |
13 | 桜井 総一郎 | 1,298 |
14 | 松田 春太郎 | 1,214 |
15 | 西田 厚良 | 1,193 |
明治44年 | ||
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互選人氏名 | 納税額(円) | |
1 | 佐藤 助九郎 | 9,046 |
2 | 馬場 道久 | 7,887 |
3 | 菅野 伝右衛門 | 6,620 |
4 | 田中 清文 | 5,620 |
5 | 米沢 与三次 | 5,456 |
6 | 浅野 長太郎 | 5,125 |
7 | 高広 次平 | 4,797 |
8 | 中田 清兵衛 | 4,579 |
9 | 平野 五兵衛 | 3,766 |
10 | 金岡 又左衛門 | 3,473 |
11 | 井上 清治 | 3,348 |
12 | 畠山 小兵衛 | 2,978 |
13 | 橘 清治郎 | 2,936 |
14 | 内山 松世 | 2,931 |
15 | 岡本 八平 | 2,880 |
佐藤家の各村別地租納税額
明治33年 | 12ヵ村 413円 |
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鷹栖村 | 217 |
中野村 | 44 |
東石黒村 | 40 |
北山田村 | 36 |
般若村 | 24 |
南般若村 | 14 |
柳瀬村 | 13 |
油田村 | 10 |
戸出町 | 10 |
北般若村 | 3 |
石黒村 | 2 |
東般若村 | |
(合計 413円) |
大正7年 | 29ヵ村 2503円 |
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鷹栖村 | 256 |
南山田村 | 292 |
南般若村 | 273 |
太田村 | 232 |
柳瀬村 | 210 |
東石黒村 | 171 |
東般若村 | 144 |
戸出村 | 87 |
中野村 | 84 |
般若村 | 74 |
北山田村 | 73 |
大森村 | 52 |
野尻村 | 49 |
北般若村 | 43 |
富山市 | 32 |
山田村 | 25 |
堀川村 | 23 |
雄神村 | 18 |
油田村 | 18 |
出町 | 18 |
高岡市 | 14 |
飯野村 | 14 |
城端町 | 12 |
伏木町 | 11 |
石黒村 | 4 |
新湊町 | 3 |
栴檀野村 | 1 |
桜谷村・長岡村 | |
(合計 2503円) |
【砺波郷土資料館 『第31郷土先人展 庄川の川工事が生んだ実業家 「佐藤助九郎展」』2008年より抜粋】