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3中野(その1)

2016.1.20

中野地区の大字・小字一覧

 地区名 大字小字 
 中野  1畑野新 1 分口上島 2分口北島 3向島
4松川除後島 5西島 6三次郎島
7上西島 8柳島
   2中野新 1宮島 2鷹栖口上 
   3中野 1鷹栖口上 2天蓋 3大島 4籠下
5相割 6外榎 7大開 8西向
9四ヶ川原 
   4中野出 1堂島 2横江下 
   5新明 1東島 2東川原島 3中川原島
4西川原島 5西島

1畑野新(はたのしん)

1分口上島(ぶんくちかみしま)

 文化8年(1811)8月に中野村六次郎等が弁財天前を新開につき、ごみ入れ水門方願書を提出し分口水門を作った。その川の上を分口上島と名付ける。


2分口北島(ぶんくちきたじま)

 文化8年(1811)8月に中村村六次郎等が弁財天前を新開につき、ごみ入れ水門方願書を提出し分口水門を作った。その川の北であるので分口北島と名付ける。


3向島(むかいじま)

 畑野新を開拓した畑六次郎宅前に低い川除があり、その東向にある土地でこの名がある。


4松川除後島(まつかわよけうしろじま)

 千保川の右岸に堤防があり、その東側の地を松川除後島と名付ける。


5西島(にしじま)

 分口上島の西にあるので西島と名付ける。

6三次郎島(さんじろうじま)

 中野村の三次郎なる者が開墾したので、その名をとり、三次郎島と名付ける。
・マツガワヨケオオマガリ(松川除大曲) 松川除二番堤防の上を庄川町より砺波市出町にいたる県道が大きく鉤の手に蛇行して通っていたのでこの名がある。この堤防一帯は、戦前は松の木や熊笹が繁茂し昼も暗い場所で、昔は狐や狸に化かされた所と語り伝えられいる。自動車の発達によりゆるいカーブに改修された。


7上西島(かみにしじま)

 西島の上にあるので、この名がある。


8柳島(なやぎじま)

 当時多くの川柳が生えていたので、柳島の名がついたようである。


2中野新(なかのしん)

1宮島(みやじま)

 当地に神社を建て、(宮の島)宮島と名付ける(稲荷社)。老年の方々はこの宮を論所の宮ともいっている。
・アナグチ(穴口) 耕土の深い場所で、昔堤防のあった東側で、若林口用水の川縁のため、川が渦巻いて穴のようであったので、この名が伝えられている。

2鷹栖口上(たかのすぐちうえ)

 鷹栖口用水の上段の地(南)にあたるためこの名称がある。

3中野

1鷹栖口上(たかのすぐちうえ)

 鷹栖口用水の上段の地(南)にあるため。


2天蓋(てんがい)

 千保川上流より天蓋が流れて来て、この地にかかりし処により、この名の始まりである。天蓋とは、仏、菩薩像などのうえにかざす「きぬのかさ」のこと。
・ニホンドイ(二本樋) 庄川合口用水の出来るまで、鷹栖口用水と若林口用水の上を舟戸口用水が木の樋で流れていたのでこの名が付いた。
・テンガイチョウバ(天蓋丁場) 同場所付近には、千保川、鷹栖口用水、若林口用水の接合地点のため工場の丁場があったと思う。砺波市史に「昭和9年(1722)3月、千保川の洪水により、中野村てんがい丁場入川し、新明村、竹正村、矢木村東領、五郎丸新村等、御田地川崩石砂入り、苗代時代のため致極大変で、仮堰作りに苦労をす。同年6月に御貸米願書を出す」とある。


3大島(おおしま)

 南は若林口用水、北は新又口用水の間の大きな島であったためこの名をつける。


4籠下(かごした)

 中野前の二番堤で、新又口用水の旧二番水門付近より下流に蛇籠を伏せて、庄川の水を西に入れないように、また、水流を東に流すようにしたのでその後ろを籠下としたようである。
・アマデラアト(尼寺跡) 昭和の初年頃、庵主様が死去し、仏像は上の尼寺に合祀し、寺は廃寺となる。現在立山酒造KKが賃借して駐車場に使用している。
・ヨソベイヤシキ(与三兵衛屋敷) 昔は庄屋を務めた旧家であるが、昭和20年代に一家は東京に移住し、現在水上初太郎の所有となる。
・ダイキインアト(大喜院跡) 庵主の死去により廃寺となり、昭和62年3月に宅地の一部に御堂を建築し、仏像を安置して外の宅地は墓地となった。


5相割(あいわり)

 地名の由来等は不明であるが、昔、加賀藩には田地割の制度があって、20年毎に高持の地所が変更したようである。地所は河原を開墾したもので、田畑の良悪の差が甚だ大きく、当時の高持は相談の上、何年かの期間を定めて各自の耕作地を割直したので、相談の相と割直しの割をとって相割としたのではないだろうか。
・カザイモンアト(嘉左衛門跡) 大正の初め頃一家は金沢市へ移住する。
・チョウラロハンヤシキ(長太郎はん屋敷) 中野村の庄屋も務め、持高1千石とも伝えられ、大正の初め頃富山県会議員を務めた旧家でもある。酒造業を営む時期もあるが、昭和の初め頃に一家は東京に移住する。宅地は戦後中野村の所有となり、中野村役場を建設した。現在は中野振興会館となっている。昭和43年、宅地の一部を中野村農協が買収し、農協事務所を新築した。また、一部を賃借して稲種部プラントを建設した。
・カヘイアト(加平跡) 加平は屋号である。当主の勤務会社の関係で、一家は東京に移住する。
・トウスケアト(藤助跡) 藤助は屋号と思う。一家は北海道へ移住する。
・ハヤグルマヤシキ(速車屋敷) 速車という名の加越能の力士がいたので屋号となる。昭和初年頃、一家は高岡市に移住する。
・サンマイアト(三味跡) 中野村役場で下村の火葬場を建てるまで、この地に於いて死亡者を火葬したようである。現在もこの地に三昧地蔵様が残っている。
・オケヤアライタ(桶屋分家田) 当主の水上助太郎が死亡し、長男も死亡したため、屋敷跡は田となる。
・コヘイヤシキ(小平屋敷) 約78年前、一家は金沢市へ移住し、屋敷は田とする。
・ジヨモンアト(次右衛門跡)飯田次右衛門一家は名古屋へ移住し、跡は田となる。
・ジゾウサママイ(地蔵様前) 安永4年(1772)藤井三右衛門宅地前の方に庚申堂を建立する。その前に砂畑がり、昭和初年頃まで相撲を取ったりして、子供の遊び場であった。


6外榎(そとえのき)

 当地区に大きな榎が多く生えていたので地名となる。
・ヨシロダ(与四郎田) 昭和初年に畑与四郎一家は北海道に移住する。跡は田にした。
・モザエモンヤシキ(茂左衛門屋敷) 当主は日中戦争にて戦死、妻は病死、子供は親戚に預けられ、宅地は人手に渡る。


7大開(おおびらき)

 東は千保川、西は若林口用水の間の広い土地を開墾し、文化13年(1816)に大開宮を鎮座する。昭和28年に中野神社に合祀して跡地を田に開墾する。当宮に「なら」の木が多く植えてあったのでドングリ宮ともいわれていた。
・ハトバ(波止場) 現在の水上明雄宅の屋号である。昭和初年頃まで、舟戸口用水を川舟で農産物を高岡へ運搬し、帰り舟で生活用品・肥料等を積んで青島村までも行き帰りしたようである。当地で中野村、古上野村等付近の村の荷物を積み降した場所で、荷車、荷馬車などの発達のために次第に仕事がなくなった。昭和20年代まで船小屋があった。


8西向(にしむかい)
 大開の西が若林口用水で大開の向かいにあるのでこの地名となる。
・クヘイアト(九平跡) 藪九平一家は北海道に移住、屋敷は田に開く。


9四ヶ川原(しかかわら)
 加賀藩が庄川上流方面に、井波川原、四ヶ川原、十一ヶ川原の区域を設定して、その地域内の費用を負担せしめた。四ヶ川原は、坪野村、松原上野村、縄野内村、松崎村であったが、明治7年地租改正により中野村に編入されたので、この地名とした。

〈中字〉
・ニシナカノ(西中野) 大開、西向は新又口用水と舟戸口用水の間の川原の西に出来た集落で、中野村の西にあるので、西中野といっていた。


【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】