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「砺波市の地名」の記事

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5苗加(のおか)その3

2016.2.19

2.野村島(のむらじま)

1 宮島(みやじま)

   野村島の中で横江(用水名)以南の地域の総称。由来はいつの頃から宮島という小字名ができたかは詳ではない。この地域内にお宮(桑野神社)があるので宮島と名付けられたのである。
  ・スナヌキバ(砂抜き場) 1〜135番地の一部、2〜4番地の一部、3〜2番〜3番地の一部で、宮川及びその支流において水流を円滑にするため、土砂を掘り上げた場所。
  ・カワヨケジマ 226番地及び223番地の大部分で、庄川の川除あとを開墾してできた土地。
  ・オオゼマチ 1〜226番地の大部、2〜218番地の一部、3〜274番地の一部で大きな田のこと。一番大切にしている田のこと。お仏供様田等といい伝えられている。
  ・マエクボ 窪地。(新)206
  ・タカクボ (新)206〜207〜213〜214の一部、扇状地における低湿な耕作地でもやや高段にある窪地。
  ・クボ (新)202〜203〜204〜206〜207〜213〜214の各中央部を南から北にかけて細長く続く低湿耕作地。
  ・カラムシダ (新)238〜239の各一部と163〜164の一部で、昔からむしが生え茂っていた土地。
  ・キモイリダ (新)145〜146の3分の1を占める耕地で肝煎田辺氏が所有していた土地。
  ・カゴマチ (新)145〜144〜143〜142のうち現横江本江宮川に沿う水害予防地、十一間樋において宮川用水と横江が交差し、この辺り水害多発地であったので、あらかじめ蛇籠を準備するなど水害防止関係の資材置場であった。
  ・ジュウイッケン(拾壱間) 宮川用水と横江用水との交差する所で文化9年(1812)十一間築造の記録あり(横江掘削は明暦3年なるも野村島地内は文化9年)。嘉永7年(1854)の加賀藩の公文書の中に十一間の記事あり。両用水交錯し昔は宮川用水が下であったが、筆者(川西)幼少の頃は横江本江が下を流れていた。古文書調査では平面交差となっている。
  ・ショウゾウヤシキアト(庄蔵屋敷跡) (新)155〜156耕地。現西島上河合敬一祖先の屋敷跡。
  ・モリカワショウサクアト(森河正作跡) (新)264〜267番で大正末年福野町に移住した森河正作の屋敷跡。
  ・イチゾサアト(市蔵さあと) (新)269〜274の一部で、現竹部久志先々代までの住居の跡。
  ・イチロベアト(市郎兵衛跡) (新)217〜218の一部で、森河家の屋敷跡。森河清没後まもなく長男は大阪に移住し、現在その子孫は高岡に在住。
  ・ブヨモンアト(武右衛門跡) (新)158〜186の各一部で、現河合浩宅の西側で大正10年代に県外に転出。


 2 東島(ひがしじま)

   野村島の中で宮川(用水名)以東の地域の総称。由来は大字野村島の東部に位置するをもって東島という。
  ・ズイコウジマ(瑞光島) 砺波市立砺波南部小学校周囲より南方の東島地区一帯(五鹿屋地区鹿島も含む)。慶長9年3月鹿島のうち瑞光島野開き申付状(河合文書)に石川原のはざま、石原のはざまを次第に開墾していき、文禄5年(前田家文書)鹿島のうち野村島新開のことの記事がある。慶長10年の総検地の頃は一村立となっている。
  ・ナカイナバ (新)64〜42〜47の各一部。由来は不明。
  ・マンスケジマ (新)32の一部。
  ・クボ (新)113.現宮川用水に沿った細長い耕地の窪地。
  ・ツヨモンアト(津右衛門跡) (新)103の一部。現在西島下に在住の河合英俊の祖父が以前住んでいた跡。
  ・マゴザエモンアト(孫左衛門跡) (新)30の一部。現在西島下在住の川辺俊夫の先祖代々が住んでいた跡。
  ・シミズヤシキアト(清水屋敷跡) (新)32の一部。現新木信明宅の西部、清水菊太郎が住んでいた屋敷跡。大きな屋敷で村外に転居後は荒れるにまかせ、幽霊屋敷とも称されていた。



   

3 中の島(なかのしま)

   宮川(用水名)本江横江及び辷り川(何れも用水名)に囲まれた野村島の地域。由来は東島、宮島、西島各小字に囲まれた野村島の中央部にある小字であるので、かく名付けられた。いつの頃から呼称が始まったかは不詳。
  ・クボノタ @(新)328〜329〜333。
        A(新)338〜339。
        B(新)452〜の一部。
        C(新)439〜443の一部。
        上記4か所は宮川用水、旧辷り川に沿った低湿地。
  ・コウヤジマ (新)361〜365の各一部。由来不詳。
  ・ヨヘイヅクリ(与平作り) (新)351〜353〜357〜358の一部。由来不詳
  ・オオシマ 旧辷り川と旧柳川に挟まれた広大な土地。
  ・スイテングウアト(水天宮跡) (新)421の一部、旧辷り川に他の2つの支流の合流点(中の島2465番地)に鎮座の水天宮の跡地。水天宮は明治40年3月桑野神社に合祀された。
  ・サンマイアト(三昧跡) (新)491の一部、かつて三昧の跡地。
  ・オオゼマツ @(新)429の一部。
         A(新)458〜459の一部。大事な田の意味。
  ・ヒキジ @(新)429の一部。
       A(新)374の一部。年貢米または租税の徴収上特例的に取扱いをうけた土地をいう
  ・ガッコウアト(学校跡) (新)426の一部。明治22年野村島有志による私立成徳小学校がこの地に設立され、翌明治23年7月18日苗加村に東野尻小学校が開校するまで成徳小学校があった場所。
  ・ガラダ @(新)400〜439〜443〜445各一部にまたがる土地。石ころの多い耕作地。
  ・ハッチョモンアト(八右衛門跡) (新)332の一部。八右衛門転出の跡。
  ・サンジョンサアト (新)357の一部。川辺直が富山市へ昭和30年代に転出。その屋敷跡。
  ・イサクマアト (新)399の一部。現在西島下在住の高木友重の父までが住んでいた屋敷跡。
  ・ヒョウゾウヤシキ (新)401.由来は不詳。


 4 西島上(にしじまかみ)

   野村島中・宮島及び中の島の西南部に在り、現農道の東野尻地区南部横9号線以東の地域。由来は戦時中(昭和18年もしくは19年)西島は戸数多きをもって上と下とに二分され今日に至る。野村島全体からみて西部にあり、また西部のうち、上に位置するをもってそのように名付けられたのであろう。
  ・ウマステバ(馬捨場) (新)520〜654〜653〜652の一部。福野町川除新との境界地(現在市道となる)。横江本江、焼馬川その他の河川が並行して流れ、村境でもあり雑木がうっそうと茂り、馬の屍体を捨て埋める場所となっていた。
  ・クボタ @(新)660の一部。
       A(新)664〜665〜666〜669〜674の各一部にまたがる細長い耕地で窪んだ田。
  ・ナカジマ (新)656〜657〜659の各一部。現在は市道。
  ・ミナミノシマ (新)655〜653の各一部。
  ・キタノシマ (新)655〜653〜651〜650〜649〜648の各一部。東西に細長い耕地。
  ・タカクボ (新)677〜678〜679の各一部にまたがる細長い耕地。やや高い窪地。
  ・オオゼマツ @(新)686の一部。
         A(新)619の一部。由来は大切にしている耕作地。
  ・クラタ(倉田) (新)554〜555の一部。昔酒蔵のあった跡。(現田辺甚一の祖先)
  ・ツボタ(坪田) (新)551〜553の各一部。由来は村でも旧家の一つといわれる半兵衛(竹部氏現在分家がこの地の西部にある)の坪のあとといわれている。
  ・ヤマネサアト (新)623〜629〜683の各一部。由来は山根という家が転住したその屋敷跡。
  ・チョウタロウアト (新)557.由来は昭和初期頃まで居住した、河合長太郎の屋敷跡。
  ・ヘンデンショアト (新)681の一部。由来は昭和初期頃まで、野積川水力発電KK(後北電に合併)の変電所跡。


 5 西島下(にしじましも)

   西島上に隣接する野村島西部の全域の呼称である。東野尻地区農道南部9号線以西全域の呼称である。由来は、西島下は元来西島上と一体としていわゆる西島と呼称されていたのであるが、野村島の中で最も広く、人口の多い小字であったため戦時中(昭和18〜19年)米の供出、配給米、配給物などの事務量を勘案して上と下に分離されたのである。
 
  ・クボノタ @(新)697〜698〜701〜702の各一部。
        A(新)518〜517〜562の各一部。
        B(新)475の一部。
        C(新)714の一部。由来は窪田。
  ・ドイノシタ (新)571の一部。由来は不詳。
  ・ヒキチ (新)487の一部。由来は年貢及び租税上特別扱を受けた地という。
  ・ヤナガワヅクリ (新)471〜472の一部。柳川ぶちにある耕地。
  ・ガラタ @(新)605の大部分。
       A(新)714の東半分。由来は浅耕土砂礫の多い地。
  ・カヤカブダ (新)718〜719の各一部。由来は萱の繁茂した地。
  ・ナカシマ (新)763の一部。旧焼馬川と横江本江の間の耕地。
  ・オオゼマツ (新)751全体。由来は大事な耕地の意。
  ・トウヨモンアト (新)586の一部。由来は大正10年頃まであった藤右衛門の屋敷跡。
  ・ロクベアト (新)586.終戦近くまで居住の河合六兵衛跡。石川県に転住。
  ・ヨソシチアト (新)594.由来は柴田与三七の家跡。他に転居。
  ・ヒコサブロアト (新)704〜705〜730の各一部。由来は川西彦三郎大正10年頃大阪に転住の跡地。


 <中字>

  ・ノジリミチ 藤田集落と原道集落を境する道路で、古くはわからないが区画整理の時に毀され、近くに改良道路ができたが今後両集落の区分けが難しくなりやすい。かつては郷道のいわれがあり交通量が多くあった。ただし他に一説あり、野尻から苗加地内に入る地点は同一なるも地内に入ると直ちに一方西方に迂迴し、現小倉明の前より斉藤昭二前を過ぎ川辺清春裏北側で八幡集落へ。草創期は何れが人通りが多かったかはわからぬが、境界跡の方が遥かに多くあり。
  ・ゴフクマチ(五福町) 県道砺波―福光線と、高儀―津沢線との交差点を中心として形成された街村集落につけられた呼称。集落は砺波市及び福野町にまたがり、砺波市苗加原道島、同野村島西島下、福野町野尻、同川除新、同岩武新の五小字の各一部宛をもって構成されている。同地区に居住する人々がその幸福を乞い願って、いつの頃からか五福町と自称(明治末期、大正初期すでにこの呼称あり)したものである。明治32年野村島西下及び野尻川除新の両小字地内に、中越鉄道(現JR)高儀駅が開設されて営業開始、また明治36年には、地元有志の出資による高儀倉庫合資会社(その後幾変遷を経て現在の福野町農協高儀支所に至っている)が設立され、近郷近在の米穀及び肥料(主として石灰及び北海道産魚肥)集荷輸送業務を開始し、高儀駅は乗降客と併せて漸次繁盛し(明治36年の記録に一日の乗降客850人に及ぶとの記事あり)、これらの人々のために酒屋・床屋・雑貨屋・魚屋等相次いで開店し街村を形成し、今日に至っている。
  ・ミョウジンマチ(明神町) 苗加地区原道集落と野村島西島下の境界で、(新)1054、1055、1106、現県道に沿う。いつの頃からあったかわからないが、明治末期頃までこの通りは料理屋等、飲食店が立ち並び、宵ともなれば、界隈の若衆等寄り集まり絃歌、嬌声で賑わったと言い伝えられる。六兵衛、坂田、藤田、谷口、田辺家等があったが次第に他へ移住した。

  


 【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】