知る 歴史にタイムトラベル

 

関連タグのフォト

  • MORE

「村々のおこりと地名」の記事

  • MORE

1庄川町のあけぼの(その4)

2016.4.7

2雄神川(庄川)と古代文化

雄神神社の歴史


 奈良時代以前に既に拝み神社を中心に、山麓の丘陵地帯や川辺に住民が住んでいたことを述べてきたが、今度は神社史を中心に、雄神神社とその周辺の様子をみてみよう。

 雄神神社には式内社(しきないしゃ)として由緒ある古い神社として知られている。式内社とは、平安時代の中頃(905年)につくられた『延喜式神名帳』に記載されている古社のことで、全国に2861社があり、このうち官幣(皇室の神祇官が奉納する)の大社が304座、同じく小社が433座、国幣(地方官—国司−が奉献する)の大社が188座同じく小社は、2207座となっている。当時砺波地方12郷には、砺波郡7座並小として、高瀬神社、雄神神社、林神社、比売神社、浅井神社、長岡神社、荊波神社がのっている。この7社のうち、現在その所在が明らかでないものもあるが、いずれも古代砺波地方の集落との関係が深いと思われる。

 終戦後、神社の社格は全部廃止されたが、それまでは、官・国幣社のほか、県社・郷社・村社などの社格があり、砺波地方では高瀬神社が国幣小社、雄神神社は郷社となっていた。このような社格制度は、氏子や神職がその氏神の社格昇進のため、我田引水的な資料を収集するなど、その過程において真偽が疑われるようなことがあったようである。

 雄神神社所蔵の『雄神神社誌』によると、本社は高おかみの神を主神とし、暗おかみの神・暗岡象神を配祀す。人皇12代景行(けいこう)天皇の10年(西暦82)に御鎮座の由、往古より申し伝える、という。この西暦81年は、弥生時代の中頃にあたり、それを文献などのうえで立証することは困難なことは前述してきたとおりであるが、オホ族が『オホ』の神をまつったであろう時代としては、論外に伏すこともできない。文献資料をもとにした『神祇(じんぎ)全書』、『神社明細書』などに記されている「創立年月日は明らかでないが、古社として桓武天皇(737年〜)以前からあったことが明白で、延暦14年(795)8月、神位従五位上を奉授され、以後徐々に正一位までになった」という見方が答を得ていると思われる。また、同書には、祭神は高おかみの神・瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)となっている。

 この雄神神社の社地は、数回にわたって移動してきた。古くは、雄神郷の南山の中腹、水見岡(みずみがおか)というところにあって、前面水に臨み、背面に山を負っていた、という。この地は、位置からみると今の弁財天の社地で、前面の水は雄神川をさすのであろう。現在弁財天社(別称元雄神神社という)の地は、庄川右岸から独立して、いかにも弁財天島というにふさわしい地形であるが、よくみると対岸の壇ノ山(だんのやま・壇ノ城址のあるところ)とをつなぐ川床には岩盤の露出がみられる。これは壇ノ山が突出していたことを示すもので、さらにそれを物語る近世以後の記録のみをみても天正13年(1585)、寛文3年(1663)などとすうかいにわたって庄川の氾濫で社地を崩壊するばかりでなく、社殿も数回流失している。この突出した山地によって庄川の流れは大きく西方向へ転じていたことがわかる。

 こうして、雄神神社の社殿は幾度となく再建を重ね、近世に入ってからは社地を東の山麓(広谷口)に移した。その後社地が芹谷野用水の再掘さく路となったため、宝永7年(1710)3月、現在地に移ったという。この地は、当時勝負見といい、光教寺(井波町)の跡地であった。したがって、弁財天社(元雄神神社)は、かつての洪水で残った拝殿に、本殿と同じ祭神をまつって、雄神神社が元鎮座していたといういみから元雄神神社と名づけられたものという。

 一方、奈良時代の雄神神社が地域においてどのような地位を示していたか、他の角度からみてみよう。

 

東大寺庄園と雄神神社


 奈良時代の東大寺は律令国家(公地公民制を基礎とする中央集権的国家)の保護政策のもとで官大寺(かんたいじ)として発展した。これらの寺院は、墾田私有制が認められ占墾地使(せんこんちし)を各地に派遣し、地方の行政官の協力を得て、田地の開墾を積極的に推進していった。東大寺は特に越中・越前(福井県)方面に大規模な庄園を展開した。

 砺波郡の東大寺庄園は、従来、地方史的立場から多くの研究が蓄積されてきたが、その中心課題として多く取り上げられてきたのは、正倉院(奈良東大寺)などに残された墾田地図を用いた庄園の現地比定であった。しかし研究蓄積の多さにもかかわらず、庄川の氾濫による地理的景観の変化、地名、呼称などが現在の地名と直接結びつくものがないなど困難な条件のために、未だに定説みない現状である。墾田地図によると砺波郡の東大寺庄園は、北から順に石粟(いしあわ)庄・伊加留岐(いかるぎ)庄・井山(いやま)庄・杵名蛭(きなひる)庄の4庄であるが、いままでの説を総合判断すると、石粟庄は砺波市東般若地区東保から高岡市中田町今泉の地域に、伊加留岐庄は砺波市柳瀬。下中条方面に、井山庄は、庄川町雄神橋から三谷に至る現庄川の本流を含める地域に、杵名蛭庄は井波町今里・川原崎・戸板辺の地域に比定される。いずれにせよ井山庄が庄川町、特に雄神郷と関係が深いように思われる。この井山庄は、天平神護3年(767)3月、越中員外介(いんがいのすけ)(副国司級地方官)に任じられた利波臣志留志が、東大寺に献上した墾田100町そのものであろう。

 さて、「東大寺開田図」は、東大寺が所有した庄園の庄域や開発状況をあらわしているが、そのなかに、しばしば地方神に奉献された神田が注記されている。これは庄園の開発や経営をすすめる際に、地方の名神の神威をかりて作業が順調に進行するよう祈ったあらわれであろう。天平宝字3年(759)の石粟庄開田図には、神田として男神2反とあるが、男神とは雄神のことであり、他に荊波神2反72歩、浅井神・櫛田神それぞれ1反となっており、これらの各社のうち、櫛田神社(射水郡)以外は砺波地方の式内社である。また、8年後の開田図には、新しく井山庄があらわれ、雄神4反、荊波神4反などが記されている。

 石粟庄は、かつて中央貴族の橘奈良麻呂(たちばなならまろ)が所有した墾田であり、井山庄は、前述した地方豪族の利波臣志留志が所有した墾田であった。それゆえに、これらの神田は、東大寺に奉献される以前からあったものと思われる。かつてこの両庄には周辺地域から農民がかり集められ、作業に従事したであろうが彼らの日常生活の中で、雄神神社は重要な役割を果たしたことであろう。と同時に墾田所有者にとって雄神神社への神田奉献の意義は重要であった。それは、所有者のいだいた神祇信仰の『あかし』にとどまらず、雄神をまつる村落やその首長層に対する政治的意図がひめられていたと思われる。

   

大伴家持と雄神川の歌


 “雄神河くれなゐにほふをとめらし葦附とると瀬に立たすらし”
この歌は『万葉集巻十七』に「砺波郡雄神河の辺にて作れる歌一首」とあり大友家持の越中万葉集の代表的秀歌とされている。家持が越中の国司に任じられたのは、天平18年(764)のことで28才の若さであった。大伴氏は代々武将として皇室の守護の任に当たった名族であり、家持は旅人の子として和歌に長じていた。また、この頃の越中は能登を含めた「広域」越中時代であった。

 さて“雄神河の歌”の意味は、「見渡すと雄神川では赤い『もすそ』(腰から下をおおう着物)の色が美しく水に映えている。あれは少女らが葦附(食用)をとるため川の瀬に下りて立っているのであろう。」というもので天平20年(748)、春の諸郡巡行の旅に出て詠んだ9首の中の第1首である。当時の国司の業務は地方民の勧農、収税の督励のほか、地方の神社などに参拝することが重要な任務となっていた。当時の砺波郡には、雄神神社など式内社が各所にあり、その周辺には集落が発達していたことは前述のとおりである。

 家持は射水郡の国府(今の県庁所在地)を出発、射水川から小矢部川の左岸を南に進み、さらに雄神川沿いに方向を東に変え、砺波郡の郡家(ぐうけ・地方の役所)を訪ねたあと、高瀬神社に参詣、さらに歩を進め、雄神神社に近い庄川町地内で雄神川を右岸に渡ったものと思われる。この歌を詠んだあと、砺波郡から山越えで婦負郡に出て、鵜坂神社の近くで鵜坂川(神通川のこと)を超えて「鵜坂河の歌」を詠み、さらに新川方面へ向かった。このように家持の巡行路をみると、雄神川をはさむ雄神・金屋の両地区が、砺波地方の交通の要衝として発達、後の「藤懸(ふじかけ)の渡し」となっていたとしても不思議でない。現在、雄神橋の上流右岸には民家はないが、少なくとも、松川除築堤がなされた近世初めごろまでは、集落が延長していたものと思われる。小字名の「上町」に城下町の街並みを想像しがたいが、その名ごりが感じられる。

 ところで、中田橋の東詰(高岡市中田町)に家持の歌碑(雄神川の歌)が立てられ、万葉植物『あしつき』とともによく知られている。現在、『あしつき』の自生しているところは、中田町麻生など数カ所、いずれも庄川中流で清水の湧出するところでる。この『あしつき』が大正期(1912〜)になって御旅屋太作氏によって異説が出されるようになった。それは、家持の詠んだ葦附は、現在中田地域で保存につとめられている『あしつきのり』でなく、全く違う川モズクの類であるということで、多くの著名な植物学者の賛意を得、今や定説にとってかわろうとしている。この川モズクの類ならば、雄神地内の庄川辺で採取することができる。

 このように、前述の家持の巡行路と考え合わせ、家持か「雄神川の歌」を詠んだのは、中田地内でなく、まぎれもなく庄川町地内であったといえる。



【榎木淳一著 村々のおこりと地名<地名のルーツ=庄川町>昭和54年より抜粋】