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D−1杜氏集団について

2014.6.24

(1)杜氏(とうじ・とじ)とは

杜氏とは

杜氏とは

杜氏とは酒蔵で働く蔵人の頭を意味するとともに、その総称でもある。

 蔵人の統率者としての杜氏はひじょうな権限をもっているもので、酒造り主からいっさいの責任をまかされて作業をする。ほかの職人の世界と同様に、高度の技術を必要とし、長い年季を積まねばならない。酒の元になる蒸し米や麹を調べたり、酒を仕込む水を吟味したり、重要な工程を監督したりする。さらに自分の下で働く蔵人を統率するだけの人格や才能もなければならない。

 3人以上、14・5人が一集団となり、頭を中心に10月頃から翌年4月頃まで寝起きをともにして酒造りをするのである。現在ではその頭である杜氏には、労働大臣による技能検定の国家試験がある。

 杜氏という名称の起こりは次のようである。宮廷で酒を造る役職(処女たちが口噛酒を造っていた)や、造酒の神の名を「刀自」と呼んでいた。また中国では杜康というものが酒を造りだしたという伝説があり、それが酒の異名になっていることなどから、「刀自」が「杜氏」に転訛したものであろうと考えられている。今日の男性中心の酒蔵で働く酒人や、その頭を指す名称を「杜氏」というようになったのは、近世以降からだという。

(4)酒造り集団の発生した背景

現在、杜氏組合に加入している全国の杜氏数は1698名、三役と一般働き人をあわせると、6778名、組合数は23組合となる(平成6年)。今でこそ、これらの人たちには酒造りの技術者という地位はあるが、かつて能登では、出稼ぎする人を「おとしなべ」、酒造りに行く人を「さかやもん」などと呼んでいた。また、出稼ぎ先では「今年も渡り鳥が来た」などと陰口をいわれていたという。

 能登の内浦町を中心とした杜氏の里を例として、酒造り集団が発生したその背景をみてみよう。

 内浦町は能登半島の突端で、富山湾に面した半農半漁の村である。背後はなだらかな丘陵地が連なり耕作地は狭く段々たんぼや畑が海岸近くまでせまっている。わずかばかりの田は飯米(家族が食べるだけの米)程度の収穫しかないので、自分で船を持ち漁に出る者もいる。春から秋はそれらの仕事をするが、冬はシベリアから吹き付ける季節風が強いため海が荒れるので漁にでることができない。近くにはこれという産業もないので、冬仕事として出稼ぎにいく。出稼ぎによって得る現金収入は家計に占める割合が大きい。厳しい自然環境が、根気強さや、進取の気性を生み育てたのである。江戸時代の早い時期から、農・漁業が出来ない冬の間、酒屋へ多く出稼ぎに行くようになったのは、このような事情からである。

 全国的に杜氏集団で有名な地域は現金収入が少ないことや、耕作地が狭いことなど、この地域と共通するものがある。したがって、全国の主要杜氏たちのおおくは、農山漁村民たちの冬期間の出稼ぎ集団なのである。

 酒造りの技術の伝承は、このような人たちによって支えられてきたのである。

(5)酒を造る人たちの生活と酒蔵の生活
図6富山県内の酒造へきている杜氏の出身地

図6富山県内の酒造へきている杜氏の出身地

4月早々に出稼ぎ先から帰郷する。休む暇もなく農作業が始まる。種籾洗い、苗代づくり、田打ち、代かき、田植えなどの労働が6月頃まで続く。田植えが終わり、稲刈りが始まるまでの間が一番安らぐ時期となる。9月早々に稲刈りを終え10月中旬には早出の人はもう出稼ぎに出る。11月上旬には大半の人たちが家族と寂しい別れをして酒蔵へ旅立っていく。

 今では機械化したが、酒蔵での生活は厳しかった。また厳しい身分・職階制があった。聞き取りによって、昔の酒蔵での生活時間を描いてみよう。

 午前2時、釜屋がまず起き釜に火を入れて蒸し米の準備をする。午前4時に全員が起き仕込みの準備にとりかかり、午前7時から8時の間に全員が集まり松尾様(酒の神様)にお参りをし、朝食をとる。午前9時から30分間の休憩をとり各部所の作業をする。昼食は午前11時から午後1時半までである。朝の早い酒蔵で働く人たちにとっては、待ち遠しい自由時間でもある。午後は1時半から3時まで作業し30分の休憩をはさんでまた作業をする。午後5時には風呂に入り1日の汗と疲れを流す。夕食もそこそこに夜なべの作業に取り掛かる。そして午後9時をもって一応一日の作業は終わるのであるが、就寝前にまた、頭から夜番の分担を指示される。午後11時に夜番のかけ声で総起きし、眠い目をこすりながら、酛まわり、醪の泡消し、槽場での重石替え、漬米桶の水切り、出麹の準備と夜中の作業が1時間ほど続く。このように寝る暇のないほど忙しい生活が半年間続くのである。忙しい作業で疲れているので眠るのが一番の楽しみであったという。それだけに一冬の酒造りが終わって「甑倒し」の行事が最大の楽しみとなる。「甑倒し」というのは、一切の蒸し米が完了し、仕込みが終わると窯の火をけし甑を釜からはずすことである。その日はいつもより早く作業を終わり、全員が広間に集まる。食膳には御馳走が並び、酒屋の主人がきて蔵人たちの労をねぎらい、にぎやかな酒宴を行う。酒造り歌を歌う者、雑談をする者など、和気あいあいのひと時を楽しむである。こうして一冬の厳しい酒造りが終わるのである。旅先で働く蔵人は給金をもらい、精いっぱいおみやげものを手に、懐かしい家族たちの待つ故郷へ帰るのである。



【砺波郷土資料館『砺波野が育んだ地酒』1995年より抜粋】