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Cある千石クラス蔵元の酒造高の推移

2014.6.24

ある千石クラス蔵元の酒造高の推移

表4 ある蔵元の酒造高の推移

表4 ある蔵元の酒造高の推移

 昭和40年代に廃業した砺波地方の某酒造場。そこには大正11年から太平洋戦争末期の昭和18年までの酒造記録が残っている。酒造高は千石前後。まず戦前の砺波地方では中堅どころである。記録の年代は第一世界大戦の好景気が終わって昭和初年の世界恐慌、特に農村の不景気を経て、やや立ち直りかけたところから日中戦争、そして太平洋戦争へ入っていく時期にあたり、それが造石数に端的に現れている。砺波地方の酒造界の代表例として紹介したい。この蔵元は明治元年の創業で、明治37年度富山県清酒製成高表(『県史史料編Y』797頁)によると537石余で県内の上位20位以内に入っている。

 酒造の年度は毎年10月に始まり翌年9月に終わる。例えば「昭和10酒造年度」というと昭和10年10月に始まり翌11年9月までである。しかし、これでは一般の1年と感覚的に合わないので、ここでは一般の暦年で表すことにする。毎年酒造年度の始まる直前の9月末になると、翌年度の「酒類製造見込石数」を税務署へ申告する。さらに翌年1月になると「酒類製造見込石数更定申告」をだしてその年度の酒造高を更定している。ここではその更定高を年度別に整理して表4を作成した(一部史料を欠く都市は見込石高によった)。記録の始まる大正11年(1922)は第一次世界大戦の好景気も去り、米騒動の大正7年から続いた米価の高騰も鎮静した年である。この年は1267石、翌大正12年(1923)は1117石と千石台が続いている。ところが大正13年は482石と半減している。これは12年の暮れから13年1月へかけて仕込んだ分が大量に腐敗したためである。この年の分が109石、それに前年度の古酒が95石、計204石が腐敗している。そのため当初の見込石数の申告が1262石であったものを途中で仕込みを止めたのである。なおこの前年、大正12年9月には関東大震災が起こっている。昭和10年の移出高報告では東京市へ131石の出荷をしている。もし大正期にも東京行きがあったとすると、これへの対処もあったと思われる。大正14年(1925)、15年(昭和元年)は千石台へ戻っている。ところが昭和2年(1927)は836石と、急に少なくなっている。これは当家の事情による。すなわち、前年の11月に当主(父)がなくなり、四十九日忌もすまぬ翌12月にはその父(祖父)が亡くなったからである。翌年にはされに386石減じている。

昭和4年(1929)には643石に増したが

 昭和4年(1929)には643石に増したが、まだ今までの半分に過ぎない。この年11月ニューヨークの株が大暴落して世界恐慌が始まった。昭和5年には恐慌がさらに激化し、特に農村の不況は極限に達した。この蔵元でも酒が売れ残ったのか10月には小売り店へ対して景品付き売り出しを行っている。その挨拶状には

「小舗儀先に父祖を失ひ、剰へ刻下之不況時に際会し若輩其の後を継ぐに心痛罷在候処、幸に各位の御同情御後援を給はり業務漸く緒に就き申候。之れ偏に各位之御引立之賜と感佩不斜、感謝至居る次第に御座候
就ては聊か奉謝之誠意を表はし度、別紙の如く謝恩景品附賣出し実施仕り候間・・・」

 翌6年にはまた445石と減石している。これも5年9月の申請では502石、12月には495石、そして6年2月の444石と更定しているからよほど応えたのであろう。

 農村不況がようやく立ち直りを見せた8年(1933)には一挙に1036石と千石台に戻し、3月には小売店に佐渡旅行招待と積極策に出ている。9年も千石台で、この年4月には長野善光寺や岐阜の長良川の鵜飼いなど3泊4日の招待旅行を行った。10年(1935)にはやや減るが、それでも13年までは何とか千石台を維持する。12年4月には石川・福井県の小売り店に特売を行ない、13年の夏には島尾遊園地招待を行なった。

 この間、昭和10年の移出入調査によると、東京市や福井・石川など県外への移出高は329石で、この年の造石高881石と移入高140石の計1021石の32パーセントにあたる。ここで移出というのは出町税務署管内(東西砺波郡)以外の所をいう。

 また、製造・移入高の計と移出高731石の差290石が地元(東西砺波郡)での販売高ということになる(実際には前年度の繰り返し高と次年度への棚卸し高を勘案しなければならないので少しは異なる)。

昭和13年の記録には

 昭和13年の記録には約2割の朝鮮米使用の記載があるから、前年7月に始まった日中戦争により少しは酒米の仕入に影響が出たのであろう。

 14年から造石数が減っているが、これについては13年10月末の記録に「配分石数890石562」とあるからそろそろ造石高に統制が始まったようである。以後毎年造石高がへっていく。太平洋戦争の始まった昭和16年には「精白歩合90.6パーセント」とあり、精白度を落とすよう指導があったようである。昭和18年には遂に360石まで減るが、そのかわり、合成清酒製造免許を受けて340石の合成酒を製造している。窮すれば通ずであるが、それは蔵元側のことだけではなく、需要者
―――飲む側の論理でもあったのである。

 記録は昭和18年で終わっている。翌19年から企業合同が行われたからである。

(佐伯 安一)



【砺波郷土資料館『砺波野が育んだ地酒』1995年より抜粋】