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宗半塚

2017.1.6

増山城最後の城主、中川宗半の塚

宗半塚

宗半塚

金剛山恩光寺(現 南砺市福野)はもと、庄金剛寺村にありました。その寺跡近くに、土地の人が「宗半塚」と伝えているところがあります。大きな杉の株があり、土盛りしたようにも見え、幾つかの石造物とその破片が残っています。

 塚石とされているものは高さ75cm、幅36〜40cm、底部の厚さ14cmで、将棋の駒形です。破損、表面の剥落が著しく、銘文などが記されてあったのかどうかわかりません。

 『加能郷土辞彙』によると、中川宗半(光重)は、通称清六といい尾張の人でした。初め織田信長に仕え、のちに前田利家の娘婿となり利家に仕えました。さらに、文禄となって豊臣秀吉に仕え3,000石の禄を受けました。文禄3年(1594)には禄高23,000石に至り、後に、増山城の守将代となりました。

 宗半は一時滅びた恩光寺に重ねて寺禄を寄進し、再興したといいます。老後は恩光寺に退き、巨海斎宗半と号しました。慶長19年(1614)53歳で没し、同寺に葬られたと伝えられています。また、その子孫は現在南砺市院林に在住しています。