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8林(はやし)その1

2016.4.16

林地区の大字・小字一覧

 地区名 大字小字 
 林  
1日詰

1洗田島 2上中島 3若ノ宮 4神ノ島
5神尾島 6二枚田 7辻 8江之浦
   
2紺屋島

1宮野 2中野 3前河原 4河原 5砂金
   
3杉木

1狐河原 2大河原 3宮野 4御坊野
   
4小杉

1御旅屋 2中の島 3西島 4外砂
5砂田 6高川原
   
5小島

1大窪 2梅木 3桜木 4善田
   
6東中

1三十五歩 2村中 3川原田 4下島
5諏訪島 6上島
   
7水宮

1宮田 2寺田 3五俵苅 4中川原
   
8新屋敷

1西島 2中島 3馬場島
   
9林

1砂田 2深田 3中田 4川原 5八枚田
   
10藤沢

1砂山 2小橋 3重兵衛島
   
11新栄町

1三反島 2狐川原

1. 日詰(ひづめ)


 1 洗田島(あらいだじま)

   地名の由来は不詳。洗田島の範囲は、(新)750番地〜758番地の辺りまでである。
 

 2 上中島(かみなかしま)

   地名の由来は不詳。上中島の範囲は、(旧)28番地〜38番地の辺りまでである。


 3 若ノ宮(わかのみや)

   地名の由来は不詳。若ノ宮の範囲は、(旧)136番地〜196番地の辺りまでである。


 4 神ノ島(かみのしま)

   日詰神社の前を神の島といい、番地は(旧)398番地の辺りである。


 5 神尾島(かみおじま)

   地名の由来は不詳。北部小学校の前を神尾島といい、番地は(旧)447〜459番地である。


 6 二枚田(にまいだ)

   地名の由来は不詳。(旧)460〜461番地の辺りで、現在の集落センターから佐久良神社の辺りである。


 7 辻(つじ)

   地名の由来は不詳。現在の日詰の墓地の辺りである。番地は(旧)500〜670番地である。


 8 江之浦(えのうら)

   地名の由来は不詳。北部小学校の東北部に当たり、番地は(旧)771〜787番地の辺りである。


 9 下中島(しもなかじま)

   地名の由来は不詳。岸渡川と中村川の分岐点の間の細長い所で、番地は39〜41番地である。なお、26〜36番地の所も下中島と称したと伝えられている。

2. 紺屋島(こうやじま)

1 宮野(みやの)

   地名の由来は不詳。
  ・ゴボウヤシキ(御坊屋敷) 遠い昔、高野山の阿闍梨智見という御坊がこの地に来て、荒漠たる原野を開墾し一宇を建てたので人々が集まって来て、一村ができるようになった。ここを高野島村と称していたのが、いつ頃からか「高野」を「紺屋」と書き誤り今日に至っている。寺は戦火に遭い焼失した。明治初年、寺の跡地に有徳小学校を建てた。場所は、宮野36・37・38・39番地((新)林779番地)である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 昔、林某が来て染物屋を始めたと言い伝えられ、その跡地を屋敷田といっている。その染物屋の「紺染」からこの地を「紺屋島」と称するようになったとの言い伝えもある。場所は、179の1番地((新)830番地)である。


 2 中野(なかの)
 
   地名の由来不詳。
   小地名 なし


 3 前河原(まいがわら)

   地名の由来不詳。
   小地名 なし


 4 河原(かわら)

   地名の由来不詳。

  ・カワラジマジンジャアト(河原島神社跡) 往古、この地には河原島神社と宮野神社跡と呼んだ。(旧)852番地である。
  ・セイヨモンアト(清右衛門跡) 清右衛門が住んでいた跡地で(新)887番地である。


 5 砂金(すながね)

   地名の由来不詳。

  ・ナカガワヅクリ(中川作り) 中川某が耕作していた田圃。その場所は、砂金(旧)911番地である。

3. 杉木(すぎのき)

1 狐河原(きつねがわら)

   明治20年頃、この辺りで嬰児が狐に咬まれて亡くなったという話が伝えられている。河原の近くに狐が棲んだ深い森があったのだろう。杉木の東北部に当たる現在の新栄町付近である。

  ・オチダン(落段) 前川に著しい落差のある所があり、そこを人々が「落段」と呼ぶようになったのだろう。その場所は、(旧)1437・1441・1443・1444番地である。
  ・コザインサヤシキ(小左衛門屋敷) 小左衛門の屋敷跡。(旧)368番地、(新)259番地である。
  ・イチロウウエモンヅクリ(市郎右衛門作り) 市郎右衛門の持田。場所は、(旧)384番地、(新)249番地である。
  ・ウマステバダ(馬捨場田) 死んだ馬を埋めた所。新又川に沿った所で石村弥一宅の近くである。


 2 大河原(おおがわら)

   杉木の東部を流れる前川に沿った地域を大河原と称している。前川は流れが緩やかで葦が生えた所があちこちにあった。

  ・ヨシダ(葦田) 杉木地内の中央を流れる川を俗に前川と称するが、昔は流れが定まらず、葦が多く生えていた。この前川の左岸を開拓して田圃にしたので、葦田とよぶようになったと伝えられている。
  ・サンマイダ(三昧田) 昔火葬場であった所を田圃に直したので三昧田の名がついたのであろう。その場所は、(旧)1403番地である。
  ・アシアライダ(足洗い田) 昔、馬の脚を洗った所と伝えられ、(旧)1527番である。
  ・サンマイダ(三昧田) 明治初年まで火葬場であり、また墓地でもあった。その場所は、(新)1136番地である。
  ・キチシロサヤシキ(吉四郎屋敷) 吉四郎が住んでいた所でその場所は、(新)1243番地である。


 3 宮野(みやの)

   県道砺波・高岡線の両側で、杉木の中央部である。東砺波郡出町杉木と西砺波郡林村杉木との郡境で二分されたが、元は一つの集落で旧地番は一連番号になっており、両方とも杉木日吉社の氏子である。東は前川、西は山王川に挟まれた土地で、地表から2〜3mは赤土の層で、庄川の扇状地としては珍しい所である。この地は古くから人々が住んでいた所で旧家も多い。その中央に氏神日吉社があり、お宮がある野原というので、宮野となったといわれている。また、この辺りに杉の木が多く生えていたので、この付近を「杉木」(スギノキ)と称するようになったと伝えられている。

  ・クボ(窪) 昔から田圃が軟らかく深かったので窪といった。その場所は(新)2131番地である。
  ・ゴンベイヅクリ(権兵衛作り) 権兵衛の屋敷跡。その場所は宮野2008番地である。
  ・キチベサダ(吉兵衛田) 吉兵衛の屋敷跡及び耕作田をいった。宮野1975番地である
  ・マゴロクヅクリ(孫六作り) 孫六の耕作田。北海道へ移住。その場所は宮野1856番地。
  ・サラシヤヅクリ(晒屋作り) 晒屋が作っていた田。2027−1番地である。
  ・コウキチダ(幸吉田) 昔、幸吉の屋敷があった。宮野2017番地である。
  ・デブツデン(出仏田)またはオボクサマダ(御仏供様田) 昔、仏像を掘り出したと伝えられている。どんな飢饉の年でも、この田圃だけは特別に実りが良かったといわれている。この田は周囲の田より低くて、水が不足することがなかった。
  ・ツボタ(壷田) 生活排水が流れ込む田圃で、宮野1673番地である。
  ・クボ(窪) 周囲の田より低かったので排水の悪い田で、宮野1035、1039番地である。
  ・ヒガシヤシキ(東屋敷) 次郎兵衛の生家の屋敷跡と伝えられている。1057番地の一部である。
  ・シヘダ(四平田) 四平が耕作していた田で、(新)杉木1983・1984・1985番地である。
  ・ゲンザブロウヤシキ(源三郎屋敷) 明治の中頃に北海道へ移住した源三郎の屋敷で、宮野1919番地である。
  ・シチベイダ(七兵衛田) 七兵衛が耕作していた田で、(新)2000・2001・2002番地である。
  ・ヤマノナカ(山の中) 木曽義仲の俱利伽羅攻めの時、通ったという伝承のある「源氏山」と称する小高い山が昭和の初期まであった。その山のあった所を「山の中」といっている。場所は1778・1780番地である。
  ・イシバイゴヤ(石灰小屋) 青島から山王川を通って石灰を舟で運び、ここで下ろして小屋に積んだ所である。現在の中越レース(株)の前の辺りである。


 4 御坊野(ごぼの)

   地名の由来不詳。

  ・サンクロウビラキ(三九郎開) 源氏山を開墾した人は三九郎だったと伝えられている。(新)2702〜2704−1の辺りである。
  ・ゲンジヤマ(源氏山) 「げんてやま」という人もある。俱利伽羅へ木曽義仲が向かう途中、この地に軍を一休みさせたという伝承がある。
  ・カンノンダ(観音田) 仏教信者の人達で作っていた田圃と言い伝えられている。御坊野2545番地である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 屋敷跡を田にした所だが、居住者は不明。その場所は御坊野2543番地である。
  ・ヤゴモンヅクリ(弥五衛門作り) 弥五衛門が耕作していた田圃と言い伝えられ、杉木2390番地である。


【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】