流送に生きた人々

  • 反物の流送半纏
    2015.2.5
    8資料 陸で運ぶ、支流で運ぶ、本流で運ぶ(その3)
    流送夫にとって、組の半纏を着て川下げをすることはあこがれと同時に誇りでもありました。反物で支給された半纏を妻は危険な流送に行く夫の無事を願い、思いを込めて縫いました。
  • 道具と半纏
    2015.2.5
    8資料 陸で運ぶ、支流で運ぶ、本流で運ぶ(その2)
    笹舟(ささぶね)川幅も水量も大きい本流は、笹舟に乗って川下げをしました。この舟を作るために舟大工を連れて山に入り、その場で舟を造りました。舟の大きさは四間二尺(780cm程)。この舟を竹でできた二間竿(360cm程)1本で操るのが越中舟頭で、かなりの技術者として全国で有名でした。…
  • 馬ソリ
    2015.2.5
    8資料 陸で運ぶ、支流で運ぶ、本流で運ぶ(その1)
    馬・ソリ重い木材の陸地での運搬には、ソリを使用しました。雪の上を滑らせて運びました。北海道では馬を使いました。
  • 静岡
    2015.2.5
    7現代 活躍の場を広げて−北海道・静岡−(その3)
     静岡では、東海パルプ(株)の所有する山から下流の島田まで流送する仕事を依頼されました。中にはお茶やミカンの木箱用の木材を流送することをありました。 大井川の源流部を目指して9月頃に富山を出発しました。山梨県の身延(みのぶ)まで鉄道で行き、さらに奥地までバスを乗り継ぎ、山を徒歩で…
  • 北海道
    2015.2.5
    7現代 活躍の場を広げて−北海道・静岡−(その2)
     庄川から北海道への流送の出稼ぎは庄川で流送がなくなる以前から行われていました。 流送の仕事は北海道の苫小牧製紙、十條製紙、王子製紙の製紙会社から依頼されました。庄川出身は越中衆、青森出身は南部衆などと呼ばれました。越中衆は舟を操るのが上手く、真面目で働き者として知られていました…
  • 流送夫の仕事
    2015.2.5
    7現代 活躍の場を広げて−北海道・静岡−(その1)
     昭和初期、庄川で流送が出来なくなると、流送夫たちは、仕事場を日本各地に広げました。春夏は北海道各地の川で、秋冬は主に静岡の大井川で流送を行ないました。富山の家で過ごすのは正月から3ヶ月程と盆前後数週間のみで、それ以外は流送に出掛けていました。 家で待つ流送夫の妻は、夫から連絡が…
  • 2015.2.5
    7現代 活躍の場を広げて−満州・南樺太−(その2)
    満州での流送 昭和初期、庄川の流送夫は、開拓が進められていた満州へ流送しに出稼ぎに行きました。富山から下関までは汽車で移動し、そこから船で朝鮮半島の釜山に渡り、さらに朝鮮半島の鉄道を北上し、満州国に入りました。そして南満州鉄道や国有鉄道に乗って各方面に向いました。 流送…
  • 庄川から満州や南樺太へ 流送の旅
    2015.2.5
    7現代 活躍の場を広げて−満州・南樺太−(その1)
    庄川で流送が出来なくなった庄川初期、庄川の流送夫は、当時開拓が進められていて資源が豊富な満州や南樺太へ流送の出稼ぎに行きました。
  • 小牧ダム
    2015.2.5
    6現代 庄川流送の終焉
     氷見出身の実業家である浅野総一郎は、庄川の豊かな水を発電に利用するため、庄川の水をせき止めてダムを作ることを計画し、大正8年に富山県の許可を受けました。このことが庄川流域の人々に伝わると農民や漁民などから反対の声があがりました。とりわけ木材業者や流送従事者たちはダムができると木…
  • 川下げ
    2015.2.5
    5近現代 庄川の流送(その3)
    ◇庄川での川下げ◇ 川下げは10月中旬ごろから始まります。一手合(ひとてあい)は20人程の人夫(にんぷ)で、ふつうは3,4艘(そう)の川舟を使って、年間約4000〜5000石(こく)の木材を川下げしました。 最初に川入れ下材木群を木鼻(きばな)、最後に川入れした材木を木尻(きじり…