知る 歴史にタイムトラベル

 

関連タグのフォト

  • MORE

「砺波市の地名」の記事

  • MORE

8林(はやし)その2

2016.4.22

4. 小杉(こすぎ)

1 御旅屋(おたや)

   小杉の1番地〜480番地。由来不詳。

  ・モヘイジマ(茂平島) 昔、茂平が秋元から移住して来て開墾した所だと古老は言っている。(旧)235番地である。
  ・コジキダ(乞食田) 昔、乞食が住んでいたと言い伝えられている。(旧)532番地辺りである。


 2 中の島(なかのしま)

   小杉の480番地〜1274番地。由来不詳。

  ・ハチスケダ(八助田) 八助の屋敷か耕作田の跡地か不明である。小杉187番地の中央付近にある。


 3 西島(にしじま)

   小杉の1275番地〜2410番地。

  ・ヤシキダ(屋敷田) 島上五エ門という人の屋敷を開墾した田で、この場所は(旧)1672番地である。
  ・ナガタ(長田) 上記島上五エ門の耕作田で、1638〜1642番地である。
  ・タカダン(高段) 島上正平が耕作していた田で、1679〜1688番地である。
  ・ニタンジマ(二反島) 上記島上正平が耕作していた田で、1578〜1606番地である。
  ・イノダ(猪田) 野沢和市の耕作していた田圃で、その名の由来は不詳。場所は1670〜1672及び1674番地である。
  ・ミヤノアトダ(宮の跡田) 藩政の頃、点在する荒地を開墾して田圃を集団化した。その耕作は本百姓が中心になって行った。その場所は2028番地である。
  ・ニシクボ(西窪) 由来は不詳。場所は2196番地辺りである。
  ・マタシロウ(又四郎) 由来は不詳。場所は2194〜2195番地である。
  ・イチバンワリ(一番割) 由来は加賀藩政の田地割からついた地名といわれている。場所は2145番地である。
  ・マタキチ(又吉) 由来は又吉という人の所有地であったことによる。場所は2138〜2147番地である。
  ・キリダ(切り田) 由来は不詳。場所は2141〜2142番地である。
  ・アライノウランカタ(新屋の裏方) 場所は2149番地である。
  ・アライマエ(新屋前) 場所は1708番地である。
  ・タカダン(高段) 場所は1711〜1715番地である。
  ・ホリタ(堀田) 場所は1716〜1718番地である。
  ・アナダ(穴田) 場所は1707番地である。
  ・ミチノウエオウジョウマツ(道上往生松) 場所は1705〜1706番地である。
  ・マイクボ(前窪) 場所は1677〜1686番地である。
  ・サンマイノタ(三昧の田) 火葬場の跡。場所は1704番地である。
  ・カワラダ(河原田) 場所は1725番地。1700〜1702番地である。
  ・ニヘイダ(仁平田) 場所は1727番地である。
  ・エノシタ(江の下) 場所は1728番地である。
  ・エヤシロダ(江社田) 場所は1724番地である。
  ・カゲダ(影田) 場所は1741番地である。
  ・ハンザヅクリ(半左作) 場所は1742〜1745番地である。
  ・アカカベ(赤壁) 場所は2119番地である。
  ・ツカゴシ(塚越) 場所は2124番地だろうと思う。
  ・サンスケダ(三助田) 場所は2117番地である。
  ・ホウタンダ(寶丹田) 寶丹坊が開いた田と言い伝えられ、その場所は2258〜2261番地、2272〜2275番地である。
  ・ホウゼンビラキ(宝善開) 藩政時代の中頃、宝善坊が開いたといわれる田圃で、その場所は2111番地((新)小杉289番地)である。
  ・ヒャクマイダ(百枚田) 百枚田と言い伝えられた田があったが、その場所は全く分からない。
  ・モトエモン(元右衛門) 元右衛門という大百姓の耕作していた所をいい、その場所は1515番地である。
  ・セイキチダ(清吉田) 昔、「清吉殿様」といって地域の人々が畏敬した勢力者がいたと伝えられている。その場所は1799番地である。
  ・サンスケダ(三助田) 由来は不詳。その場所は2058番地である。
  ・フルヤシキジマ(古屋敷島) 古屋敷田ともいっている。前記の「清吉殿様」の住居跡であろう。その場所は2347〜2368、2324〜2328番地である。
  ・オコウクボ(小神久保) 由来は不詳。その場所は2072〜2073番地である。
  ・ホウタンダジマ(法丹田島) 由来不詳。その場所は2258・2276・2277番地である。
  ・マゴシチヅクリ(孫七作り) 由来不詳。その場所は2283〜2285番地である。
  ・ハヤシヤダ(林屋田) 由来不詳。その場所は2081の2番地である。
  ・イシナダ(石名田) 由来不詳。その場所は2085〜2087番地である。
  ・カギダ(鍵田) 由来不詳。その場所は2030・2031・2034〜2036番地である。
  ・オオセマチ(大瀬町) 由来不詳。番地不明である。
  ・ハタナオシ(畠直) 場所は2053〜2057番地である。
  ・カキノキダ(柿の木田) 番地は不明である。
  ・スッキョモンクボ(助右衛門窪) 由来不詳。場所は村上一弘宅の南東にある。
  ・ダイサンマイ(大三昧) 現在の338番地の西側にある。
  ・トイカケジマ(樋掛島) 由来不詳。場所は不明である。
  ・ナベスミタ(鍋墨田) 由来不詳。場所は不明である。
  ・ババガワラ(馬場川原) 由来不詳。場所は小杉321の一部である。
  ・ゴンベイヒガシザルダ(権兵衛東笊田) 由来・場所とも不詳である。
  ・ナシキジリ(梨木尻) 由来・場所ともに不詳である。
  ・チャノンダ(茶呑田) 由来・場所ともに不詳である。
  ・ノシロダノウエ(苗代田の上) 場所は2038番地である。
  ・ノシロダ(苗代田) 場所は2020番地である。
  ・カドノオオダ(角の大田) 場所は2027番地である。
  ・フルヤシキノウエ(古屋敷の上) 場所は1810番地である。
  ・オボクデン(御仏供田) 昭和の初年まで御仏供田塚と称した所が残っていた。その場所は2024番地である。
  ・フルヤシキノシタ(古屋敷の下) 由来不詳。場所は1815番地である。
  ・ハッチャブロウヤシキ(八三郎屋敷) 八三郎の屋敷跡で(旧)1822番地である。
  ・ヤセノウエ(弥瀬の上) 由来不詳。場所は1845番地である。
  ・ヤセノシタ(弥瀬の下) 由来不詳。場所は1850番地である。
  ・ウランカタノタ(裏方の田) 場所は1995番地である。
  ・エボシダ(烏帽子田) 場所は1990番地である。
  ・ミヤモリクボノウエ(宮森窪の上) 場所は2006番地である。
  ・ミヤモリクボノシタ(宮森窪の下) 場所は1999番地である。
  ・セドノタ(背戸の田) 場所は2015番地である。
  ・ミナクチノタ(水口の田) 場所は1841番地である。
  ・ナガタ(長田)
  ・カタゲンダ(肩衣田)
  ・ミヤモリクボ(宮森窪)
  ・キツネノアナ(狐の穴) 小高い岡に狐が棲んでいたと言い伝えている所。場所は1982番地である。
  ・ミヤアト(宮跡) 昔、お宮があったと伝えられている所。3045番地である。
  ・デンニョモンヅクリ(伝右衛門作り) その場所は1930〜1931番地である。
  ・カンペイダ(勘平田) 場所は1927番地である。
  ・シタンジマ(四反島) 庄川氾濫後の荒地開墾の時につけられた名称といわれ、場所は2383番地である。


 4 外砂(そとずな)

   小杉の2411番地〜2594番地。

  ・スナジリ(砂尻) 南高木との境界にあった。


 5 砂田(すなた)

   小杉の2595番地から3485番地まで。

  ・ウシクラ(牛首) 庄川氾濫後の荒地開墾の時につけた名称であろう。場所は3725番地である。
  ・ミヤガワラ(宮川原) 由来、場所は不明である。
  ・マタベサヅクリ(又平作り) 砂田又平という人の屋敷跡である。
  ・ジョリダ(砂利田) 開墾当時砂利が多かったので、名称として残ったものと思われる。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 住人もその年代も不明である。
  ・サンマイダ(三昧田) 火葬場及び墓地の横の田である。
  ・ナガタ(長田)
  ・コダ(小田)
  ・ノジリダ(のじり田)
  ・ニヘイクボ(仁平窪)
  ・ハッチョモンヅクリ(八右衛門作り) 場所は3097番地である。
  ・イワタ(岩田)
  ・ニシコブ 場所、由来ともに不詳である。
 

 6 高川原(たかがわら)

   小杉の3486番地〜3714番地。

  ・ウマハンバ(馬剥場) 死んだ馬の皮を剥いだ所との言い伝えがある。その場所は3441番地である。
  ・クラホネダ(鞍骨田) 馬の鞍が流れ着いたという言い伝えのある所である。

 <中字>


  ・オンナカジマ(御中島) 小杉村では昭和20年に御旅屋と中の島の二つの小字の頭文字をとって「御中島」として一つの区域とした。以来、行政面・生産活動・社会教育活動等、すべての面において一つの区域として行っている。地番の範囲は旧地番1番〜1274番である。
  ・スナタジマ(砂田島) 小杉村では、外砂・砂田・高川原の三つの小字を「砂田島」とし、御中島と同様にすべての活動が一つの区域として行われている。地番の範囲は(新)2411〜3714番地である。

5. 小島(おじま)

1 大窪(おおくぼ)

   小島第1常会、第2常会に跨る地域。由来については不詳である。

  ・ドテバタ(土手畑) 土手を開墾した畑である。
  ・ヒトモジマ 由来は不詳。その場所は698〜700番地((新)356番地)辺りである。
  ・ササウランカタ(ささ裏方) 由来不詳。松島秀雄宅の北西に当たる所である。
  ・ゴボダ(牛蒡田) よい牛蒡が作れる耕土の深い田であると言い伝えられている所。松島良嗣宅近くの342番地((新)184番地)である。
  ・ニョウバガワラ(にょう場河原) 由来不詳。藤沢光男宅の南側にあった。
  ・サクラダ(桜田) 由来不詳。松島良嗣宅近くにあった。
  ・モメンダ(木綿田) 昔、綿を栽培した田で、松島良嗣宅近くにあった。
  ・キクゾウヤシキ(菊蔵屋敷) 菊蔵の屋敷跡。小竹登美子宅の西側。大窪393番地((新)201番地)である。
  ・ホンゴダ 松島秀男宅の納屋の後側で、大窪373番地である。
  ・スギノシタ(杉の下) 藤沢村の宮の大きい杉の木の下にあった田と伝えられている。(旧)大窪106番地である。
  ・イワシダ(鰯田) 名の由来不詳。場所は小島(旧)10番地である。
  ・ロクスケダ(六助田) 六助が耕作していた田であるが、石・砂利が多く、馬場川原といったと伝えられている。場所は1043番地である。
  ・キツネノアナダ(狐の穴田) 昔、狐がたくさん棲んでいて狐の穴があちこちにあった。その場所は3686番地である。
  ・フルミヤ(古宮) 昔、小島の古い宮のあった跡といわれ、小島102番地である。
  ・イワシダ(鰯田) 名称の由来は不詳で、場所は(旧)40番地である。
  ・ハヤマヅクリ(葉山作り) 昔、葉山という相撲取りの屋敷か耕作田との伝承がある。その場所は225番地である。


 2 梅木(うめのき)

   第1常会の上地区にある。由来については不詳である。

  ・チャノキデン(茶の木田) 名前の由来は不詳。その場所は梅木(旧)796番地外6筆((新)219番地)である。
  ・ヂモリダ(地盛田) 林村の中央の公共建物を建てた時、敷地造成のため、地盛用の土を採った土地だといわれている。その場所は1271番地((新)58番地)である。
  ・ソウキチヅクリ(宗吉作り) 宗吉が耕作していた田。その場所は(新)35番地である。
  ・ヨゴロウダ(與五郎田) 與五郎が耕作していた田。その場所は(旧)1158番地、(新)52番地である。
  ・ヨソマツダ(與三松田) 與三松という大百姓が耕作していた田。その場所は(旧)1107番地((新)58番地)である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 初代平八が大島家より分家した時の屋敷跡といわれている。(新)112番地である。
  ・コウヤダ(紺屋田) 昔、家内工業として藍染をしていた家があちこちにあったので、その原料の藍を栽培した田圃である。林直一宅の北側の1028番地である。
  ・ハッタンジマ(八反島) 通学道路15号線の西側で、県道坪野・小矢部線の南側を八反島と称した。(旧)1551番地である。


 3 桜木(さくらぎ)

   第2常会にある。由来不詳である。

  ・ヌマダヅクリ(沼田作り) 由来不詳。新藤誠一宅と沢田正守宅の間をいう。
  ・シマダヅクリ(島田作り) 島田某が住んでいた所で、毛利和義宅の近くにある。
  ・スイシャノタ(水車の田) 明治・大正の頃、水車があったからその近くの田を水車の田と呼ぶようになった。毛利和義宅の近くである。
  ・カギダ(鍵田) 名の由来は不詳。小森良一宅の西側、(新)96番地辺りである。
  ・シモシキヂ(下引地) 名の由来は不詳。その場所は(旧)1922・1923・1924・1925の1、(新)439・440番地である。
  ・ナカシキヂ(中引地) 名の由来は不詳。その場所は(旧)1914・1917番地、(新)335番地である。
  ・マンニキダ(万力田) 名の由来は不詳。その場所は(旧)1569・1603番地、(新)320番地の一部である。
  ・ロクトモン 名の由来は不詳。その場所は(旧)1918番地、(新)335番地の東の部分である。
  ・ショウベイダ(庄平田) 庄平の耕作していた田。村田理髪店の前の(旧)1591番地外2筆((新)319番地)である。
  ・イシザキダ(石崎田) 石崎某の耕作していた田で、桜木1675の2番地((新)242番地)である。
  ・ヤシキアトノオオダ(屋敷跡の大田) 旧家(石崎謙の母の生家)の屋敷跡の広い田。石崎一夫宅の前70mほどの所で、桜木1533番地、(新)228番地である。
  ・ヘイハチダ(平八田) 平八から譲り受けた田の意味か、場所の意味か不詳である。


 4 善田(ぜんだ)

   第2常会にある。由来不詳である。

  ・チョウダヅクリ(長田作り) 名の由来不詳。
  ・マタダ(又田) 由来不詳。小竹吉徳宅の西側で(新)378番地である。
  ・サザブサ(佐三郎) 由来不詳。藤沢和夫宅の近くにあった佐三郎の屋敷跡か。
  ・ヒコエモンヅクリ(彦右衛門作り) 彦右衛門の耕作していた田。藤沢和夫宅の近くにある。
  ・ミチノシタ(道の下) 道の北側、藤沢和夫宅近くにある。
  ・ミヤモリダ(宮森田) 宮森用水を作った時、宮森から小島へ地送りした土地で、2304・2307・2308・2340番地((新)382番地)である。
  ・ジアサ(地浅) 耕土が特別に浅い田圃の名称である。
  ・ゴブイチ(御分市) 名前の由来は不詳。1926〜1928・1930番地である。

6. 東中(ひがしなか

1 三十五歩(さんじゅうごぶ)

   圃場整備以前の岸渡川(工事により岸渡川の位置が少し変わっている)東側一帯の東中の地内を三十五歩と称した。その地名の由来は不詳である。

  ・ヒルガオカ(午飯岡) 午飯岡は、圃場整備以前までは小島村林外弘宅西北約70mのところにあった。高さ1m、広さ10m四方ほどの岡状の草地があった。ここは寿永2年、木曽義仲が俱利伽羅攻めの途中、この地を通った時、家来が石を運んできて、義仲のために午飯の座を設けたという伝承によって、午飯岡と呼ぶようになった。
  ・ウマステバ(馬捨場) 横川吉正宅の東側、東宮森との境に、この地の人々が馬捨場と称している所がある。農耕等に使った死馬を埋めた所と言い伝えられている。(新)104・105番地の辺りである。
  ・カゲサンマイ(蔭三昧) 馬捨場を含め、この辺り一帯を地域の人たちが蔭三昧と呼んでいたのが地名となったのだろう。また、この辺りを「蔭島」と呼んでいたので、この名がつけられたとも思われる。
  ・カメタロウ(亀太郎) (新)19番地の辺りを「亀太郎」と呼んでいた。その名の由来は不詳である。
  ・オスワサマ(御諏訪様) 山本森太郎宅の西側より南側一帯を、昔お諏訪様と称した((新)37・41・42番地の辺り)。地域住民の守護神として、建御名方命を祀ったお宮であったが、明治40年東中神社に合祀された。


 2 村中(むらなか)

   圃場整備以前の岸渡川の西側から中村川の東側一帯を村中と称した。この地域には氏神や寺があり、村の中心部に当たるので村中と称した。

  ・カンサマダ(神様田) 高橋数雄宅南方約80mの所に現在小さい祠がある。これは天正13年11月大地震の時、庄川の流路が大きく変わって大洪水となった。その洪水のため庄川弁財天の御神体が押し流され、この地に流れ着いたのを拾い上げて祠を建てて祀った。その祠のあった所を神様田と呼んでいる((新)231番地)。
  ・カンノンジ(観音寺) 山本武志宅の北側より、伊藤外信宅の東側一帯((新)141番地〜270番地)を観音寺と称した。霊験あらたかな観音様を安置していた寺で地域住民の信仰が篤かった。
  ・ミヤダ(宮田) 飛田義雄宅の前の廃屋付近((新)245番地)に熊野社があった。地域住民の守護神として、伊弉諾尊・速玉男命・事解男命の三柱の神を祀っていたが明治40年東中神社に合祀された。この辺りの田圃を宮田と称している。
  ・ナカンシマ(中島) 伊藤敬二宅の宅道の北側を「なかんしま」と称した。昔、庄川洪水の時、土砂が溜り中州ができたので「なかんしま」と称した。その場所は(新)371あるいは(新)372番地のいずれかであったらしい。
  ・ロクゾウヅクリ(六造作り) 六造という古い家(肝煎 清兵衛の本家ともいわれている家)の耕作地をいった。六造家は明治の末期に後継者なく絶えた。
  ・タカハシサマヅクリ(高橋様作り) 旧家の高橋某は興国・正平の頃、東中で最も古いと伝えられている善福寺の先祖高橋弥次郎左衛門(南朝方の武士といわれている)と一緒にこの地に来た武士団の一人で、高橋家の先祖でなかろうかといわれている。耕作した田等で(新)136番地辺りである。
  ・ナカノミヤ(中の宮) 宮井俊一宅((新)302番地)西側一帯を中ノ宮と称した。ここに誉田別尊を祀った八幡宮があった。この宮は氏子20戸、境内は210坪ほどの村社であったが、明治40年東中神社に合祀された。
  ・タカハタ(高畑) 伊藤外信宅近くの田圃にタカハタと称する所((新)270番地の辺り)がある。昔、ここに高貴な方が住んでいたという伝承がある。名の由来は不詳。近年ここから縄文土器が出土している。  
  ・シッチョモンヅクリ(七右衛門作り) 七右衛門の屋敷跡と耕作田跡をいっている。七右衛門は明治の中頃北海道へ移住した。
  ・ウタツヤマ(卯辰山) 伊藤寛二宅の北側一帯((新)282番地)は、圃場整備以前は、小高い丘状になっていて卯辰山と称し、ここに戦国時代末頃に「舘城」という小さい城があったと語り伝えられている。
  ・モンノコシ(門の腰) 舘城の門のあった所と伝えられている。
  ・ババガワラ(馬場河原・一名馬駈け場) 舘城の軍馬の訓練場が卯辰山の近くにあったと言い伝えているが、その場所ははっきりしない。
  ・エノジマヅクリ(えのじま作り) 東中の四辻より30mほど東方の道路沿いに(県道 坪野・小矢部線)俗称えのじまと称し、古物周旋業を営む人が住んでいたが、大正の末期に他所へ移住した。その場所は(新)423あるいは424番地と考えられる。
  ・ヂゾウガワラ(地蔵河原) 宝珠庵前の草地を地蔵河原と呼んでいる(現在はゲートボール場及び児童の相撲場)。享和2年、仁兵衛という高持が両親や祖先の恩に報いるため自分の土地にお堂を建て、地蔵を安置した。その後いつの頃からか東中村が管理することになった。地蔵祭りは氏神様の祭りと同様に盛大に行われ、地蔵祭りの余興として、加賀、能登、越中の力士が集まる三国相撲が開かれて有名である。大正の末期まで恒例として盛大に行われた。
  ・キミョリサノハカ(肝煎の墓) 現在、西陵工場の鉄工棟((新)328番地)の辺りに、大正の中頃まで肝煎清兵衛の墓があった。家族が亡くなる都度、石の塔を建てた贅沢なものであった。肝煎のことを「キミョリサ」と呼んでいた。
  ・シチスケヅクリ(七助作り) 東中神社前より伊藤外信宅の方へ通じる道路の中間((新)136番地)の辺りに、七助の屋敷が大正の初期まであった。馬の去勢を行う建物もあった。
  ・マンスケヅクリ(万助作り) 八十瀬万助の屋敷及び耕作田をいい、(新)400〜402番地の辺りであった。

 3川原田(かわらだ)

  圃場整備以前の中村川の西側より、西の方はおよそ(新)700番地近くの所までを川原田と称した。この地域は庄川の氾濫により、できた川原を開墾した場所である。圃場整備以前まで、水保ちの悪い所や地下水の湧き出る田があちこちにあって、作物栽培の困難な田が多かった。

  ・コザイモンヅクリ(小左衛門作り) 沢田小左衛門の屋敷及び耕作田をいい、(旧)2748〜2771及び2767〜3477番地にあたる。小左衛門は明治中頃に北海道へ移住した。
  ・スナヤマ(砂山) 伊藤寛二宅の北側(新)286または119番地辺りに丘状の所があった。人々は砂山と呼んでいた。これは昔、舘城跡を開墾した時、木の株や根・石等を集積した所と伝えられている。
  ・チリブまたはチーブ(散歩) (新)523・525番地辺りで、圃場整備以前は地下水が湧出するため、稔りの悪い所であった。名の由来は不詳。
  ・ハッセンボ(八千圃) (新)658・663・665・668・671・672番地の辺りは、圃場整備以前は、田圃の数が多い所で有名であった。人々はここを「八千圃」と呼んでいた。
  ・ハッタンジマ(八反島) 圃場整備以前には、小さい田圃が8反も集中していたので八反島と呼んだ。その場所は(新)711番地50mくらい東方から東中共同墓地の辺りまでの広い範囲に跨っていた。
  ・ゴロベイヅクリ(五郎兵衛作り) (旧)2497〜2514番地までの18筆を五郎兵衛作りと称した。
  ・ナガドブ(長溝) 平野三郎宅(高波1780番地)南方に長さ約20mほどの細長いドブがあった。これを「ナガドブ」と称し、大正の中頃まであった。
  ・イヘイドブ(伊平溝) 東中の共同墓地の西方((新)597番地)にあったと伝えられている。長溝と同様地下水が湧出溝であった。名の由来は不詳である。
  ・ホンゴドブ(本江溝) (新)632番地辺りであったろうと伝えられている。長ドブ・伊平ドブと同様に地下水の湧出するドブで、これらの冷水で灌漑した下流の田圃は稔りが著しく悪く、藩政時代の年貢米は他の所に比して少なかったと伝えている。
  ・タスケヅクリ(太助作り) 太助が耕作していた田圃で、(旧)川原田4137番地である。
  ・ナガワリヅクリ(長割作り) (旧)川原田2787番地を長割作りと称していた。地名の由来は不詳である。
  ・セイジロウヅクリ(清次郎作り) 清次郎は現在の流田家の先祖である(成田家の本家)。(新)511〜512番地を清次郎作りと称していた。

 4 下島(しもじま)

   川原田より西の方、(新)700番地より下中境およそ(新)800番地辺りまで、南の方は690番地下中境に至る範囲である。地名の由来は不詳であるが、東中では最も川下にあたるので、この地名がつけられたのだろう。
  
  ・マツノシマ(松の島) (新)833番地または(新)834番地の辺りに、松の島といって、少し小高く、松の木が生えた所があった。
  ・シメノク(示野区) 示野区は(新)859・838番地の辺りで、地下水が高く、作物栽培の困難な所であった。地名の由来は不詳である。
  ・ショウザエモンヅクリ(庄左衛門作り) 庄左衛門作りは(新)760〜763番地である。庄左衛門は、明治末期に北海道へ移住した。


 5 諏訪島(すわじま)

   これは東中の地内ではごくわずかの面積である。東中の南方にあたり、鷹栖出村との境(現在の養鶏場の辺り)及び西の方は下中との境に諏訪島と称する所があった。

  ・ソウハチヤシキ(宗八屋敷) (新)482番地の一角に、昭和の初め頃まで、宗八屋敷と言い伝えられている草地があった。これは明治中頃に宗八という若者が北海道へ雄飛した(その頃明治政府は、北海道の開拓を奨励していた)。宗八は大きい夢を描いて北海道へ渡ったが、騙されて監獄部屋へ入れられ挫折した。ここにいてはいつかは殺されると思い、逃げ出して、何年もかかって郷里東中へ帰った。その時宗八は老齢になっていたので働けなかった。村では可哀想に思い、小さい家を作って住まわせた所を宗八屋敷と称していた。
  ・ニホンギノヤマ(二本木の山) (新)2846−1・2846−2・2846−3・2848−2・2848−3・2844・2845番地の辺りは、圃場整備以前までは、小高く雑木が繁茂していたので、狐や狸や兎等が棲息していた。森の中の祠をお諏訪様と呼んでいた。この山の一部は鷹栖出村に入り、一部は東中に入っていたと思われる。


 6 上島(かみしま)

   不詳。

 <中字>

  ・ムカイジマ(向島)あるいはオモテジマ(表島) 東中村には明治から大正・昭和の初期にかけて、向島など五つの島に分けてその地域を呼んでいた。若衆の活動集団や子供の集団(田祭りの行事等)によく使われていたようである。向島は現在の第一常会の略々範囲になる。昔向島であった家で現在第三常会に入っている家がある。これは川や道路が移動したため、境界線が変わったためである。
  ・カゲジマ(陰島) 東中の現在の第二常会の東部を、明治・大正・昭和の初期に陰島と呼んだ。東中村全体から見て、この地域は北に位置するので「カゲジマ」と呼んだと思う。
  ・ウラジマ(裏島) 東中の第二常会の略々西の方一帯を裏島といっていた。東中全体から見て北に位置し、表島に対して裏島としたのかもしれない。
  ・デムラジマ(出村島) 出村島の由来については不詳。現在の第三常会の範囲をいっている。
  ・ニシタンボジマ(西田圃島) 東中の第四常会の範囲にあたる。この地域は東中では最も遅く開墾された新しい地域である。昔、東中の人々は、東の方からこの新しい西の田んぼへ農耕に行った。その中に分家が次々にでき、他の島と同じような島ができ、「西たんぼ島」と呼ぶようになったという。

7. 水宮(みずのみや)

1 宮田(みやた)

   御神体が洪水の時流れついたという伝承からこの辺りを宮田と呼ぶようになったと言い伝えられている。

  ・オオクボ(大窪) 川の流れの関係から、大小の窪地があちこちにあったが、この場所の窪みが一番大きかったので大窪と呼んでいた。場所は(旧)172〜191番地、(新)1372〜1377番地である。
  ・イチバンワリ(一番割) 宮田の田地割のとき、一番先に割った所と伝えられている。場所は(旧)67番地、(新)林1337番地である。


 2 寺田(てらだ)

   往古、かなり大きな由緒のある寺があったが、戦火にあい焼失してしまった。その後寺は再建されなかった。この辺りを土地の人々は寺田と呼ぶようになった。現在この寺の跡地に「水宮社」が建っている。

  ・テラノタンボ(寺の田圃) 往古、この地にあった由緒ある寺(名称は不明)が戦火にあい焼失したが、その後、寺は再建されずに田圃になった。地域の人達は寺の田圃と呼んでいる。
  ・ヨシベイダヅクリ(与志平田作り) 与志平が北海道へ明治中期に移住した。その耕作田をいい、(旧)375番地((新)林1284番地)である。
  ・ヤキダ(焼田) 戦火により寺が焼失した時、山林も類焼した。その跡を開墾して田にしたことから、人々は焼田というようになった。場所は(旧)496番地((新)林1284番地)である。
  ・セイヨモンヅクリ(清右衛門作り) 明治の頃北海道へ移住した清右衛門の耕作田及び屋敷であり、(旧)356番地((新)林1332番地)である。
  ・ヨソイチダ(與三市田) 明治の頃北海道へ移住した與三市が耕作していた田で、(旧)318番地((新)1329番地)である。


 3 五俵苅(ごひょうがり)

   藩政時代、お上から5俵収穫せよと厳しいお達しを受けていた地区といわれている。

  ・ウマダ(馬田) この地は、寺が戦火で焼失した時、馬を繋いでいた所といわれ、また馬の墓場ともいわれている。場所は(旧)386〜391番地((新)林1277番地)である。
  ・イシナハタケ(石名畑) 開墾の時、石を集積した所。場所は(旧)392、399番地((新)林272番地)の一部である。
  ・ムシロヅクリダ(筵作り田) 筵織り専用の藁を穫る田圃であった。場所(旧)489番地((新)林1269番地)である。


 4 中川原(なかがわら)

   中村川沿いの細長い所で、最も遅く開拓した所といわれている。

  ・クチダ(口田) 中村川沿いの田で、村の最も上流にある川縁の田で、「川の口」と呼ばれた田であろう。場所は(旧)526〜532番地、(新)鷹栖出1378番地である。

【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】