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8林(はやし)その3

2016.4.22

8. 新屋敷(あらやしき)

1 西島(にしじま)

   山王川(現在の岸渡川)の西側一帯の土地の意か。

  ・カモドジマ(鴨土島) 呼称の由来は不詳。場所は(旧)1番地外16筆にわたる地域((新)林667〜669番地辺り)である。
  ・ホウミョウ(法名) 往古庄川の洪水の折に、位牌が流れついたという。(旧)24番地((新)612〜615番地)辺りである。その位牌を小高い所に葬り埋めた(林野地35番地)。位牌を埋めた所を特に経塚と称したと伝えている。
  ・ナカクボ(中窪) 両側の小高地に挟まれた細長い田地の集まった所。(旧)20番地外9筆にわたっている。(新)林658〜661番地辺りである。
  ・ヒヤジリ(冷尻) 旧中村川の西岸に接した低湿の一帯をいい、絶えず冷水の流れ込む田であった。(旧)40番地外14筆((新)林1226・1227番地)辺りである。
  ・ハチベイヅクリ(八兵衛作り) 宮田八兵衛の屋敷跡及び耕作田一帯をいい、八兵衛は大正期に松原(福野町)に移住した。その場所は(旧)75番地外3筆((新)林665〜666番地)である。
  ・カナワリ(金割) 旧中村川に沿った低湿地の開拓によってできた田で、新開高にされた所でなかろうか。その場所は(旧)161番地外2筆((新)林1233〜1234番地)辺りである。
  ・マゴロクヅクリ(孫六作り) いつの頃か孫六が耕作していたのだろうか。この集落に孫六が住んでいたという伝承はないから、多分懸作高だろう。その場所は(旧)165番地外1筆((新)林1226〜1234番地)辺りである。
  ・スイドウノタカ(水道の高) 旧中村川に沿った田で、用水の堰があったので、その一帯の田圃を「水道の高」または「水道の上」ともいった。場所は(旧)237番地外5筆にわたる地域((新)林1249〜1251番地の辺り)である。
  ・カミジマヤヅクリ(神島屋作り) 地主、神島屋(神島より入植したという沼田家)の所有地であったためであろう。場所は(旧)228番地外2筆((新)林1217番地)辺りである。
  ・ジンベイヅクリ(甚平作り) 明治中期に北海道へ移住した鈴木甚平の屋敷跡及び耕作田をいった。場所は(旧)324番地外10筆((新)林1202・1260番地)辺りである。
  ・イシナダ(石田) 岸渡川の西岸、屈曲部にあって、石の多い小高地であったための名称であろう。場所は(旧)305番地外10筆((新)林1209・1214・1196番地)辺りである。
  ・ヌマボシ(沼伏) 一名ノマボシ(沼状)ともいっている。西島と中島の境界、岸渡川に接した低地の一帯である。沼地帯を開拓するため、沼を干したのでこのように呼んだと思われる。場所は(旧)316番地外10筆((新)林1204〜1208番地)辺りである。
  ・ロクバンワリ(六番割) 西島の田地割の際、六番目に割られた。地味下位の田地の一群で、西島の最北部に近い所。(旧)388番地外5筆((新)林1261・1267・1268番地)辺りである。
  ・コウヤミ(紺屋見) 水宮村に接する北端の原野を開拓した水田の一帯をいった。居屋敷はなく地味肥沃とはいえないので出作していた。由来は不詳である。その中の1枚の田((旧)355番地)を三昧田といって火葬場だったのであろう。この紺屋見の場所は、(旧)340番地外40筆((新)林1272・1274・12の6・1271・1278番地)辺りである。


 2 中島(なかじま)

   山王川(現在の岸渡川)と日詰村界の川との中間地の意か。

  ・カワダ(河田) 旧岸渡川の東側で川と用水路との間の細長い田の一帯で、河田と呼んだものと思う。その場所は(旧)425番地外3筆((新)林1173〜1178番地)の辺りである。
  ・キュウスケヤシキ(久助屋敷) 旧家久助の屋敷跡と伝えている。その場所は(旧)430番地外3筆((新)林1279番地)辺りである。
  ・ニヨモンヅクリ(仁右衛門作り) 仁右衛門(あるいは仁平かもしれない)の耕作地だったろうといわれている。場所は(旧)438番地である。
  ・ニヘイヤシキダ(仁平屋敷田) 明治のはじめに東京に移住した鈴木仁平の屋敷跡田である。その場所は(旧)457番地外1筆((新)林1188番地)辺りである。
  ・カジダ(鍛冶田) 地中から鍛冶屋の道具が発見された。そこに居を構えた鍛冶屋田久蔵(現在の鈴木武雄)の耕作田である。(旧)465番地である((新)林1196・1197番地)辺りである。
  ・ギョウシン(行新) 旧岸渡川東岸の低地で、小島集落の境である。由来は不詳。場所は(旧)480番地((新)林1201番地)辺りである。
  ・フジノキ(藤の木) 小島境の低地。由来は不詳。場所は(旧)508番地((新)1201・1113番地)辺りである。
  ・ヒャクブワリ(百歩割) 田地割の名称。普通は鬮1本に付き360歩であったが、ここでは100歩1本にした所といわれている。場所は(旧)509・543番地((新)林1114・1115番地)辺りである。
  ・オセマチ(小瀬まち) 畦直しをして1反2畝の広い田にした所で広い田の名称である。場所は(旧)530番地((新)林1116番地)辺りである。
  ・セセナン(瀬々波) 由来は不詳であるが、庄川洪水の際この辺りに瀬ができ、白く泡立った波が見えたので付けられた名称という伝承がある。畦直しをして1反7畝の大田となった。場所は(旧)571番地外9筆((新)林1116番地)辺りである。
  ・カナワリ(金割) 鈴木治右衛門の屋敷に隣接した畦を開いて田圃にしたものと思われる。その場所は(旧)578番地((新)林1138番地)辺りである。
  ・ケムシヅクリ(毛虫作り) 由来は不詳。場所は(旧)640番地外3筆にわたる((新)林1129番地)辺りである。
  ・アガ(またはアゴ)ワリ 由来は不詳。変形の田が多く、耕作に不便なので都合が悪かった(方言のあが悪い)ことから付けられた名称ではなかろうかと古老が話している。その場所は(旧)671番地外5筆((新)林1052〜1147番地)である。


 3 馬場島(ばばじま)

   寿永の昔、義仲軍が馬を止めた伝承に基づくものかもしれない。

  ・カワラダ(河原田) 寿永2年、木曽義仲が俱利伽羅攻めの時、この地(河原)に馬を止めて水を飲ませたという伝承からこの一帯を馬場河原と称した。この河原を開拓したので河原田と称した。その場所は(新)林1085〜1099番地である。
  ・ババガワラノタ(馬場河原の田) 中島からの出作の人々は、馬場河原の田と呼んでいた。その中に三昧田と名付けた田が1枚あったが、火葬場であったのだろう。大正末期まで雑地としていた。その馬場河原は(新)林1085〜1099番地の辺りである。

9 林(はやし)

1 砂田(すなだ)

   由来不詳。
  ・ナカノシマ(中の島) 中神地内にある田圃で、中神田といっている。由来は不詳で、場所は(旧)802・773番地である。


 2 深田(ふかだ)

   耕土が深いため深田と呼んだ。

  ・マタベイヅクリ(又平) 鷹栖出村の又平が耕作していた田圃。場所は(旧)386番地である。
  ・ホウミョウ(法名) 昔、洪水の時位牌が流れ着いたので、法名と呼ぶようになった。(旧)267番地((新)630番地)である。
  ・タケノコシ(竹の腰) 小さい田が20枚くらいあった所で、大雨ごとに浸水した深田であった。(旧)246番地外((新)610番地)である。


 3 中田(ちゅうでん)

   由来不詳。

  ・キッツァサヅクリ(吉三郎作り) 吉三郎が耕作していた田圃で場所は(旧)354番地である。


 4 川原(かわら)

   場所、名称不詳。


 5 八枚田(はちまいだ)

   場所、名称不詳。

10 藤沢(ふじさわ)

1 砂山(すなやま)

   庄川の氾濫によりいつの頃か砂の山ができ、その地域の人々は砂山と呼ぶようになったと伝えられている。また、いつ頃なくなったかも分かっていない。その場所もはっきりしない。


 2 小橋(こばし)

   由来不詳。その場所も不詳。


 3 重兵衛島(じゅうべいじま)

   由来不詳。場所は(新)142〜177番地の辺りである。

11. 新栄町(しんさかえまち)

1 三反島(さんたんじま)

   不詳。


 2 狐川原(きつねかわら)

   杉木の東北部、現在の新栄町。その場所は(新)5〜39番地。明治20年頃まで狐が出る山林であった。大人の不在中に狐が家の中に入り、嬰児を咬み殺したという話が伝えられている。

  ・ジュウシチマイダ(十七枚田) 開墾してできた田圃が17枚もあった。場所は(旧)5〜39番地である。
  ・ヌマダ(沼田) 新栄町第1棟の東方辺りになる。周囲は砂利の多い田圃であったが、ここだけは粘土質で深く、膝を没するほどの所であった。蓮が栽培されていた。

【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】