知る 歴史にタイムトラベル

 

関連タグのムービー

  • 該当記事がありません

関連タグのフォト

  • MORE

「庄川の歴史」の記事

  • かつて庄川は高瀬神社のそばを流れていたのか
  •  正月にfacebookで「杉木新町町立願書」の記事を書いたところ、ある方からコメントをいただきました。その中で、「庄川…
  • 庄川の軌道を歩く 後編
  • 幾多の困難を乗り越えて完成した小牧ダムは、昭和5年9月に湛水を開始し、11月には発電所も運転を開始しました。ここで専用鉄…
  • 庄川の軌道を歩く 前編
  • 大正15年から昭和13年までの13年間、庄川町青島から小牧ダムまで、小牧ダムの建設のために工事の資材などを運ぶ、木材を運…
  • MORE

庄川の治水工事と松川除

2013.3.28

庄川の治水工事と加賀藩

加賀藩と川筋の間には深いかかわりがあるんだよ

加賀藩と川筋の間には深いかかわりがあるんだよ

高岡城は正保2年(1645)、江戸幕府の「一国一城令」によって廃城を余儀なくされたので、加賀藩はそれにかわる 「一城同様」の拠点として瑞龍寺の造営に着手しました。
(寛文3年(1663)完成)しかし、天正13年の大地震で庄川の一部は中田川(現庄川)へ流れ入って、新しい川筋ができましたが、たびたびの出水で中田川の川幅がだんだん広くなっていき、また、千保川へ水が流れていくようになっていました。
そのため加賀藩は瑞龍寺に水がつくのを恐れ、いろいろな治水工事を行いました。

「今の庄川の川筋の原型はいつごろできたものなの?」
「この川筋になったことと加賀藩との間には深いかかわりがあるんだよ。」

鼻毛の名君といわれた 加賀藩藩主 前田利常公

鼻毛の名君といわれた 加賀藩藩主 前田利常公

@承応2年(1653)前田利常は地元の十村に中田川をさらい水を移すように命じました。
 正保二年から造営していた瑞龍寺に水がつくのを避けるためでしたが、 千保川からは中村口、若林口、新又口の諸用水が取り入れられていたので、中田川へ移されては干ばつになるかもとして反対しました。
A明暦元年(1655)、前田利常は高岡町奉行であった伊藤内膳に川除奉行を命じ、千保川の右岸、柳瀬村のあたりで柳瀬普請(柳瀬の枡形工事)と呼ばれる治水工事を行いました。
 枡形とは・・・城の入り口の構造で一ノ門と二ノ門の間の空き地のことです。 当時としては目新しい二重堤であったために枡形川除と呼ばれました。

 この工事は千保川の水流を締め切ってしまうのではなく、千保川の河床を部分的に上昇させ、一定量を越した水量が川除を乗り越えて流下させる工法で、水量が少ないときは中田川へ流れていますが、大洪水になると大量の水が千保川へ流入してしまうので、瑞龍寺は安全とは言い切れませんでした。

「暴れ川だった庄川をおさめるために加賀藩はいろいろな工事をくり返していたのね。」
「そうなんじゃよ。 川の流れを安定させて瑞龍寺や高岡を守らなければならなかったのじゃ。」

松川除って知ってるかい?
この工事によって、瑞龍寺や高岡の町は水害から守られ農地の開墾が進んだよ

この工事によって、瑞龍寺や高岡の町は水害から守られ農地の開墾が進んだよ

千保川をはじめ、野尻・新又・中村川の諸分流を締切り、全水勢を中田川一本に注がせるため、 寛文10年(1670)から諸川を一連の堤防で閉め切ることができる弁才天前で 長さ2000メートルにも及ぶ2条の大堤防の工事を始めました。 瑞龍寺に水がつくのを防ぐためもありましたが、開発の進んでいる砺波平野を水害から安定させるためでもありました。
大変な難工事で流されては築き、築いては流されることを繰り返し、40余年後の正徳4年(1714)にようやく完成しました。

しかし、堤防は完全なものではなく、出水したり、堤防が決壊するなどの被害は多々ありました。何度も工事が繰り返されました。

千保川の締め切りが難工事で石堤を築いて、川幅をせばめ、鳥足を連結して川の中の拠点として、 蛇籠などを上流に向けて弧を描くように並べ、一の輪から六の輪まで連結させてせきとめました。 一の輪は現在の庄川中学校の南側にありました。

堤防が松川除と呼ばれているのは、石堤の堤防の補強のために根固めとして数百本の松が植えられたからです。


「なんとびっくり!延べ100万人の人々がこの工事にたずさわっていたんだよ。今の富山県の人口が約109万人だから かなりの人数ってことがわかるね。
莫大なお金もかかっているんだ。
この工事によって、瑞龍寺や高岡の町は 水害から守られると同時に農地の開墾が進み、 加賀藩の財政を潤したといわれているよ。」

りっぱな松並木

りっぱな松並木

戦時中、松川除の松は燃料の松ヤニをとるためたくさん伐採されました。
当時植えられた松は、もう今では数えるほどしか残ってません。