庄川の歴史
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- 2015.1.20
かつて庄川は高瀬神社のそばを流れていたのか - 正月にfacebookで「杉木新町町立願書」の記事を書いたところ、ある方からコメントをいただきました。その中で、「庄川がかつて高瀬を流れて小矢部川に合流していたとする従来からの説が現実的でない」とのご指摘をいただきました。 たしかに砺波周辺では当たり前のように庄川の東遷説が語ら…
- 2015.1.20
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- 2013.12.26
庄川の軌道を歩く 後編 - 幾多の困難を乗り越えて完成した小牧ダムは、昭和5年9月に湛水を開始し、11月には発電所も運転を開始しました。ここで専用鉄道本来の使命は終了でしたが、同線は木材流送振替施設の一部と位置付けられている以上、その撤去は不可能でした。ただ、木材輸送の最盛期である冬季のみの運行のために、線…
- 2013.12.26
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- 2013.12.26
庄川の軌道を歩く 前編 - 大正15年から昭和13年までの13年間、庄川町青島から小牧ダムまで、小牧ダムの建設のために工事の資材などを運ぶ、木材を運搬する鉄道が走っていました。さらに、観光用としても利用されかつての庄川は賑わいをみせていました。庄川の発電計画豊富な水量を誇る庄川は、藩政期より庄川の流水を利用…
- 2013.12.26
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- 2013.4.19
庄川と流送 - 庄川水資料館発行のリーフレット「庄川と流送」で流送について学びましょう。昭和の初め頃まで、五箇山や飛騨山地の木材を運び出すのに庄川の流れを利用した 流送(木材の川下げ)を行っていました。
- 2013.4.19
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- 2013.3.28
庄川に小牧ダムができる。流木事件が起きる。(その1) - 1913(大正2)年庄川を訪れた浅野総一郎は、豊かな水量と流れを見て 「おお、黄金が流れる。黄金が流れている。」と叫びダム式発電所の計画を立てます。 1916(大正5)年には庄川の水利権使用を県に申請し、翌年には実地測量を行いました。 庄川沿岸住…
- 2013.3.28
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- 2013.3.28
庄川の流送について(その1) - 青島貯木場には金毘羅さんが祭られていました。 8月20日 お祭りが行われ、安全祈願をした流送夫たちは庄川上流の山奥をめざして出発しました。
- 2013.3.28
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- 2013.3.28
庄川の流送について(その2) - 現地の地形に合わせた木製レールの木馬道や、木材を運び出す橇も全て自分たちで造り上げ、木材の運び出しをしたのです。 この木馬道は長いのは4q余りにもなるものがありました。 彼等は土木技術に長けていたのです。
- 2013.3.28
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- 2013.3.28
庄川の流送について(その3) - 貯木場には2万7千石用水を通して運び込まれました。 流木を迎える準備は10月下旬にはじまりました。 用水取入れ口では、欅の丸太で川倉を組み、流木が水と一緒に用水に流れ込むようにしました。
- 2013.3.28
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- 2013.3.28
庄川の用水と合口ダム - 江戸時代のはじめ、加賀藩は丘陵地や廃川跡など荒地を開墾するため、上流部から長い用水路を掘削、引水、または分流の締め切り堤防に水門を設け、用水路を引くことを積極的にすすめました。また、村々でも競って開墾地を増やしました。 庄川の左岸には、山見八ケ用水・新用水・鷹栖口用水・…
- 2013.3.28
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- 2013.3.28
庄川の治水工事と松川除 - 高岡城は正保2年(1645)、江戸幕府の「一国一城令」によって廃城を余儀なくされたので、加賀藩はそれにかわる 「一城同様」の拠点として瑞龍寺の造営に着手しました。 (寛文3年(1663)完成)しかし、天正13年の大地震で庄川の一部は中田川(現庄川)へ流れ入って…
- 2013.3.28