河合文書
2013.3.11
氾濫原の開拓史を語る
河合文書
河合文書(かわいもんじょ)
平成3年6月13日・市指定
砺波市鹿島
河合(三郎左衛門)家は近世初頭から文書に現れる大百姓です。初出文書は文禄5年(1596)の「前田利長、鹿島の内野村島新開申付状」で、前田氏が砺波郡を含む越中川西三郡を領有した天正13年(1585)から程遠からぬ時期のものです。
石河原のはさま
河合文書
当時、河合家のある鹿島村の南には、庄川の旧分流であった野尻川の氾濫原跡の広大な野が広がっており、河合家はこの新開に力を注ぎ、ほどなく野村島村を立てました。
初期の文書は専らこれに関わるもので、寛永期(1624〜1644)の「石原之間(はざま)へ庄川之泥を屯(ため)」とか、「石河原のはさま」「石川原間々泥屯、少宛新開仕度」などの文言に、川跡の土たまりの所から開いていった様子を如実に読みとることが出来ます。
散村のルーツ
河合文書
こうした氾濫原に散在する開拓の適地を選んで、そこへ出小屋もしくは住居を定め、その周辺を開いていったとすれば、明らかに散村状となることが記されてい ます。このような近世初期砺波平野の開発状況を示す貴重な文書群です。このほか改作法の実施や村蔵宿に関連する具体的な資料を含め24通、ほとんど寛文以 前のものです。
○ 「河合文書」(『砺波市史資料編二近世』所収 砺波市刊 平成3)