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2近世 絵図にみる流送−『運材図会』を例にして−(その1)

2015.2.5

運材図会

『運材図会』大正6年刊(岐阜県図書館蔵)

『運材図会』大正6年刊(岐阜県図書館蔵)

江戸時代の飛騨の川下げを描いた
『運材図会』


『運材図会』は天領飛騨の南方山から伐り出した御用木を川を利用して運搬する様子を書いた図会(図や絵を集めた書)です。
この図会は、高山の地役人富田礼彦(とみたいやひこ)と高山の絵師松村梅宰(まつむらばいさい)によってつくられました。
富田は完全なものをつくるために上流の山や下流に赴き、調査・写生をして原図を作製しました。それをもとに絵師梅宰が画筆を振るい、嘉永7(1854)年に『運材図会』は完成しました。
その後大正6年に大判本が刊行され、さらに昭和45年に縮写本が複製されました。(大判本、縮写本ともに岐阜県図書館所蔵)
江戸後期の御用木の川下げの様子がわかる貴重な資料です。

伐採(山中より木を伐採する)
右)りん間尺之図 左)(りん間尺之圖)其二

右)りん間尺之図 左)(りん間尺之圖)其二

りん間尺(けんじゃく)之図
(間尺とは、木材の寸法を調べること)

古(いに)しへより多分伐出す材木なれば
口山(くちやま)はいふもさら也(なり) 奥山までも漸漸に伐尽くし、近年ハ
いともいとも深山または峻嚴(しゅんげん)聳(そび)え嵯峨(さが)しき山ならでは用うべき
木品なれば、其処(そのところ)にて元伐(もとぎり)せんとすれば、自然、釣材がち
にて、りんがりの木揃に成(なし)、其(それ)をあらたむるはいといとからきやまぶみなりき


◆意味

むかしより 伐り出す材木は
山の手前はもちろんのこと奥山もじわじわと伐り尽くしてしまい、近年は
とても奥深い山や険しくそびえる山などでないと使える
木材がないので その場所で木を伐ろうとすると 自然と吊って木を伐ることが多く、
「りん」によって木を揃える それを間尺するのはとても困難な山仕事である


りん間尺とは

 「運材図会」によると、飛騨の山でも良品は伐り尽くしてしまって、さらに奥山に入らないと、良いものは手に入らなくなったようで、奥山や険しい山の斜面に、図のような足場を組んでそこで鳶口などを使って木材を動かしたり、木材の寸法や見定めをおこなう、と記されています。この足場のことを「りん」とよんでいたようです。

 しかし、木材がなだれ落ちることもあり、人夫たちは崖に飛び木の陰へ隠れたりして無事に安堵したり、木材に敷かれて怪我をしたり、時には命を落とすこともあったようで、りんの上で働く人夫たちを「武将が扇状に向かうように、りんの上で命がけで働いている」と表現しています。また、「都会でも諸国の城下町でも皆このようにして木材を伐りだしているとは夢にも思っていないだろう」と筆者自身も驚いている様子が感じられます。

谷出し(奥山の谷の支流に木材を入れ、本流へ流す)
谷出之図

谷出之図

谷出之図(たにだしのず)

 飛騨で伐り出された木材は、すべて幕府所有物で、この図会に乗っている製材から運搬に関することは、幕府からの指示のもと、行われていたことです。

 この谷出しの図は、飛騨の谷間を川の流れを利用して木材を流している様子を描いています。

 幕府の指示により、木材は角材にしてから川下げされました。川幅のある川では、木材を筏(いかだ)に組んで流すこともありました。岩場で引っかかっている木材は、人夫が鳶口(とんび)と呼ばれる鉤のついた竿で突いて流れに戻しました。


【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】