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「砺波野の草相撲の力士たち」の記事

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3江戸相撲で活躍した戸出出身の二人の力士

2015.2.3

九文龍(くもんりゅう)と階ヶ嶽(かいがだけ)

九文龍の石碑

九文龍の石碑

九文龍清吉

九文龍清吉は、行兼村(現高岡市行兼)吉右衛門の枠で、身長6尺7寸(2m3cm)、体重43貫(172kg)の、手のひらに1文銭9枚を横にならべられるほどの大男であったという。天明年中(1781〜1788)江戸に出て当時の最高位であった大関をつとめた。寛政年中(1789〜1800)には久留米有馬藩の召し抱えとなり十人扶持(米3俵)200両を給せられたいう。郷里の行兼村には、彼の偉業を顕彰する石碑が建てられている。文化4年(1807)の建立である。

(注)九文龍に関して、この展示期間中に来館した多くの方々から、江戸時代に大相撲で活躍した公文龍は別人であろうとの指摘を受けた。江戸相撲大関の九文龍は越後国頚郡上曽根村出身であるという。今回の展示をするにあたって主として参考としたのは『戸出町史』であるが、本書には非常に具体的に、現存する文化4年の銘がある「九文龍」の石碑をはじめとして、九文龍の生家とその親名、屋敷地、九文龍の人柄や伝説までも記述している。江戸相撲大関の九文龍が活躍したのとほぼ同時代に戸出に「九文龍」と称した人がいたことは確かだと思われる。もしかすると、砺波地方で活躍した地方相撲の力士だったのかもしれない。

今回の展示では戸出の九文龍を江戸相撲大関として紹介したが、本当にそうであるのか、今後の検討課題としたい。

階ヶ嶽錦絵 歌川豊国画

階ヶ嶽錦絵 歌川豊国画

階ヶ嶽龍右衛門

階ヶ嶽龍右衛門は、文化14年(1817)に戸出村(現高岡市戸出)権平の長男として生まれた。幼名 岩次郎。

小さい頃から相撲を好み、天保15年(1844)25歳の時、地方巡業中の江戸相撲の力士鏡岩に見出され、江戸絵出て雷権太夫の門弟となった。翌年入幕をはたし、当時の最高位であった大関までのぼった。身長6尺2寸(1m88cm)、体重35貫(140kg)。八戸藩、盛岡藩などに召し抱えられた時期もあったが、文久2年(1862)郷里に帰り、権平の家を再興した。

明治元年(1868)10月23日、52歳で死去した。

(注)「階ヶ嶽」の読み方について、「はしがたけ」と読み仮名をつけている辞典もある。

階ヶ嶽の明荷
階ヶ嶽の明荷

階ヶ嶽の明荷

(高岡市立博物館蔵)

階ヶ嶽がまわしや化粧まわしなどを入れて持ち運んだ行李(こうり)。側面には「階ヶ嶽」の四股名と家紋が入れてある。



【砺波市立砺波郷土資料館 第30回郷土先人展「砺波野の草相撲の力士たち」2007年より抜粋】