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「砺波野の草相撲の力士たち」の記事

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5-3砺波野の相撲をリードした越中国相撲頭取たち

2015.2.3

八代目頭取 谷川七次郎

谷川七次郎肖像画

谷川七次郎肖像画

八代目頭取 谷川七次郎 (中神 谷川七次郎)

  天保6年(1835)、小島村(現砺波市小島)に生まれ、明治初年までには出町(地所は中神)へ居を移したと思われる。 若い頃から多くの門弟を育てることに力を注ぎ、家の裏庭に弟子のための二階建ての小屋を作り、一階は稽古場として、二階は弟子たちの寝泊りに利用させていたという。 瑞泉寺で最も古いと思われる関額に記された年未詳の38名の大関のうち、9名が谷川の門人であることからも、すぐれた指導者であったと推察される。また、直接門弟の指導にあたるかたわら、今日残っている番付などに「勧進元」「板元」「年寄」などとして名が記されていることから、江戸相撲・加越能相撲・宮相撲など、さまざまな種類の相撲の興行につとめいていたことがわかる。 晩年の明治35年(1902)には、出町相撲年寄の筆頭となり、多くの力士を率いて越後地方の巡業を試みいたるところで大入満員の木戸止めの盛況を呈したという。 明治37年(1904)に、70歳で死去した。当地方の相撲の振興に尽くした一生であった。明治9年(1876)には、門弟128名の名を刻した石碑が建立されている。これだけ多くの門弟名を記した石碑は他には見られない。

谷川七次郎肖像画・・・(砺波市広上町 個人蔵)「明治二十六年七次郎五十九歳」(箱書)



谷川七次郎石碑

谷川七次郎石碑

谷川七次郎石碑(後述力士碑1)
明治9年(1876)建立 砺波市永福町

(注)もとは神島往来と西回りバイパスの交差点東側にあった。 石碑表面には「南無阿弥陀仏」と年号、「谷川七次郎」「弟 谷響 早渡り」とある。「谷響き」「早渡り」は谷川の門弟であろう。裏面には、やはり谷川の門弟と思われる128名の人名と村名が刻されている。これらの中には後に出町に居を移す人が多く見られ、それぞれの出身村がわかるという点でも非常に貴重な史料である。

十代目頭取 湊川與三市
十代目頭取 湊川與三市

十代目頭取 湊川與三市

十代目頭取 湊川與三市
(出町 柳本與三市)

江戸時代末頃荒高屋(現砺波市荒高屋)に生まれる。明治9年(1876)建立の谷川七次郎の石碑に「荒高屋 湊川」とある。 明治末年には出町へ居を移したと思われ、大正初年頃に相撲頭取となったと推定される。そのころからか、料亭「湊川」を営んだ。

  

十一代目頭取 越柳八三郎 (出町 砂道八三郎)




十二代目頭取 柏木信司 (出町 武蔵信司)

 嘉永6年(1853)荒高屋村(現砺波市荒高屋)で生まれたと推定される。若い頃東京相撲の幕下中位まですすんだが、明治20年ごろ北陸巡業中に脱退し、出町に住みついた。のち出町の力士として地方相撲で活躍した。大正12年(1923)3月6日、70才で死去した。 明治9年建立の谷川七次郎の石碑(後述力士碑1)には「東京 柏木」とある。


【砺波市立砺波郷土資料館 第30回郷土先人展「砺波野の草相撲の力士たち」2007年より抜粋】