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東中の六地蔵

2014.11.27

文化元年(1804)に遷仏が行われたお地蔵様

東中の六地蔵

東中の六地蔵

 室町時代ごろまでは、このあたりを大きな庄川が流れていたのです。当時は「中村川」といいましたが、ここはその川の東の岸でした。そこに地蔵堂が建てられたので、こう呼ばれるようになったのです。

 この地蔵堂が建てられたのは江戸時代の終わりごろで、文化元年(1804)のことです。この近くにすんでいた仁兵衛(四代目)さんは、たいそう信心深く、先祖の恩に報いようと建てたのです。三代目仁兵衛さんのころから奉行所にお願いしてあったので、願いがかなって落成したときは、村をあげてお祝いをしました。夜通しで御詠歌をうたったり、能登・加賀・越中から集まった若衆が相撲を取ったりして、大にぎわいでした。

 しばらくして大凶作が起こり、続いていた地蔵祭りをやむなくとりやめにしました。餓死者も多く、藁まで煮て食べるありさまでした。その後も、村に災難が続いていたので、村人たちは「これは地蔵祭りをとりやめにしたからだ。」と話し合い、何とかお祭りを再開しました。そのとき、地蔵堂の扉を開けると、中から喜びの大声が響き、地蔵様の目から涙がこぼれ、床をぬらしたそうです。

 それからというもの、村人の信仰はますます厚くなり、今も毎年九月十四日に地蔵祭をとりおこなっています。(地蔵堂前案内看板より)