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W−C近代の砺波『戦時下の生活』

2014.9.4

1戦時への動き

学童疎開の写真

学童疎開の写真

 1931年(昭和6)に満州事変が起こり、15年に及ぶ大戦争の火ぶたが切られ、わが国は軍国主義体制へと向かった。1937年(昭和12)に日中戦争に入り、1941年(昭和16)に太平洋戦争に突入していった。政府は、「非常時」として節約・節制を強調し、農村の窮状をそらすとともに、在郷軍人の大規模な召集が行なわれ、働きざかりの男子が次々と戦場におもむいた。一方、政府は、農村の人口過剰と貧困の解決のため、満州への集団移民を計画した。砺波地方でも、農家の若い二・三男の青少年が大陸に渡っていった。

2戦時下の苦しいくらし
千人針と寄せ書きの日の丸

千人針と寄せ書きの日の丸

 砺波地方からも、若者がぞくぞくと戦場へおくられていった。出征する人は、まず村の氏神様におまいりをし、小学校校庭で農村の盛大な歓送をうけた。村人は村境まで、あるいは最寄りの駅まで見送った。楽隊を先頭にした村人の列に小学生も加わり、手に手に日の丸の小旗を持ち、軍歌を歌いながら歩いた。

 戦局の激しさを加えるにつれ、若者のいなくなった国内では、「銃後を守ろう」ということで、隣保班、警防団、国防婦人会など、次々に協力団体を組織していった。一家の大黒柱のいなくなった農家での農作業は大変だった。

 田植えや稲刈りの時期には、勤労奉仕として、小学生が何人ずつかに分かれて、出征軍人の家へ手伝いに行った。しまいには、校庭を耕し、野菜や芋づくりをして、食料増産に協力した。人手不足のために農業の生産がさがって食料不足がおこっていた。農家であっても白米は食べられず、ごはんに大豆やいもをまぜたり、くず米を粉にして作っただんごを食べたりした。米を供出するので、疎開者を多くかかえた家では、米の配給をうけたりすることさえあった。

 まず、品不足になったのは衣料品で、下着やくつ下にいたるまで、すべて切符制となった。着物の長そではだめ、女子のパーマもだめで、モンペや国民服の軍国調の服装になっていった。やがて一さじの砂糖、一本のマッチまで自由に買えなくなり、農耕に必要なくわやかまも配給制となった。小学生のはくくつもなくなり、げたばき・ぞうりばきで通学をした。日本全土の大都市が、毎日のように空襲を受けるようになってから、せめて子供だけでも安全な所へ移そうと、1944年(昭和19)から学童疎開が行なわれた。砺波市内の寺院では、それらの学童を受け入れ、共同生活をさせた。寺院で学習した学校もあれば、地元の学校の学級にわかれて学習をともにした学校もあった。

 砺波地方でも、役所のサイレンが警戒警報を告げるようになった。そんな時は、警防団の人が見まわりのために屯所につめ、夜は、灯火管制がしかれた。電灯のかさに黒い布をかけ、光が外にもれないようにひっそりとくらした。空襲警報になると、防空好きをかぶり、いつでも非難できるように準備をした。各小学校の校庭には、大きな防空ごうがほられていた。兵器を造る資源が不足し、金属や木材の供出を命じられた。火ばちやなべ、かまの鉄製品はもちろん、お寺のつりがねや指輪まで出さねばならなかった。最も残念なのは、屋敷林の供出であった。先祖から受けつぎ、家を雪や風から守ってきた大木が、次々に切り倒された。「家は売ってもカイニョは売らない」と大切にされてきたものであったが、戦争のためとあればいたしかたもなかった。松川除の松並木もほとんど伐採された。そして油を取るために根っこまで利用された。こうして、砺波の大切な財産であった散居村の景観が失われていったのである。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】