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2−1二代目佐藤助九郎

2015.1.30

二代 助九郎

二代目助九郎 柳瀬自治振興会蔵

二代目助九郎 柳瀬自治振興会蔵

 明治3年(1870)8月27日、上新川郡蔵本新村(現立山町蔵本新)北村光茂の次男として生まれる。幼名堯春。

  明治27年(1894)、佐藤家に入籍、同37年、初代助九郎の逝去に伴い、家督を継ぎ、二代助九郎を襲名した。

  初代の築きあげた治水・鉄道事業に加えて、折からの時代の趨勢にのって、明治42年(1909)の片貝川水力発電所工事を皮切りに、庵谷・瀬戸(岐阜県)・桃山(長野県)など次々と水力発電所の建設に積極的に取り組んだ。

 郷土柳瀬へも大きく貢献し、明治36年(1903)からその死までの29年間柳瀬村長を務めた。その間、「柳瀬村矯風会」や「産業組合」を組織し、古い因習にしばられない柳瀬村の発展に尽力した。明治44年(1911)には、貴族院多額納税議員にも選出され、財界、福祉、教育、宗教と多方面に活躍した。

  昭和6年(1931)7月、個人経営であった佐藤組を株式会社にあらため、その直後の10月30日逝去、享年62歳。

規定書  
明治39年1月 佐藤工業株式会社蔵

明治39年1月 佐藤工業株式会社蔵

 明治37年、初代助九郎の突然の逝去により跡を継いだ二代助九郎(堯春)が作製した「規定書」。すべての店員に、「徳義」を重んじて全員が団結し、本店を盛り立てることを誓わせたものであった。初代の頃の助九郎と手代との関係は、戦国時代の野武士が雇われた武将に信義を尽す趣に似ていた(『110年のあゆみ』)といい、この「規定書」と一人一人に提出させた「契約書」により、初代の時代とは一線を画した、新たな「佐藤組」の組織化がはかられたといえよう。

発行された株券(5万円と5千円)
昭和6年8月1日

昭和6年8月1日

昭和6年、資本金200万円で「佐藤工業株式会社」が創立された。

 株式組織のとき、幹部と称されるものは53人いたが、株式は25人しか割り当てられなかったという(『110年のあゆみ』)。しかもこれは会社から各人にあてて「贈与」されたものであった。全4万株のうちほぼ半分を社長佐藤助九郎が保有し、その長男健太郎と一族の久雄が4分の1、この3人で4分の3をしめる。手代のうち、今村弥三郎と塚田久太郎が1500株ととび抜けた株式を保有する。

株式会社創立当時の株式および所有株数

  株
佐藤助九郎  19000
佐藤健太郎   10000
佐藤久雄   2000
杉野久松   1500
今村弥三郎   1500
塚田久太郎   1500
佐藤欣治   600
齋藤善蔵  300
林 銀蔵   300
今村常吉   300
江田権象   300
八田義正   300
橋本茂右衛門   300
近藤昌胤   200
種 鉄次郎   200
奥田清太郎   200
中島猪田   200
橘 太平   150 
岡本正英   150
山本喜八   150
清原 清   150
平井義彦   100
今井茂一   100
関口啓三   100
大門次八   100
前沢良則   100
佐藤才一郎   100


【砺波郷土資料館 『第31郷土先人展 庄川の川工事が生んだ実業家 「佐藤助九郎展」』2008年より抜粋】

  • 佐藤助九郎から手代今村弥三郎へ渡された株式贈与状(昭和6年8月17日