『砺波の歴史』

  • 明治期の出町の街なみ
    2014.9.4
    W−A近代の砺波『商工業の発達と交通』3
     明治時代の出町の商店は、種類別に見ておよそ50種にものぼり、日常生活に必要なあらゆる商店が軒を並べていた。特に大きな商売力を誇っていたのは、神沢・小野田・大橋の各呉服屋であった。彼らは、新柄ものの販売から、古着の売買・交換など積極的な商いを行なった。その他、商店の数で多かったの…
  • 中越銀行
    2014.9.4
    W−A近代の砺波『商工業の発達と交通』1・2
    ・銀行業の創業と滋芳社 1872年(明治5)4月、政府は全国統一流通の新貨幣を発行し、続いて同年11月国立銀行条約を公布した。こうして、1873年(明治6)東京・横浜・新潟・大阪に国立銀行が開業された。一方民間からの銀行設立の気運も高まり、1876年(明治9)に三井銀行が東京で開…
  • 移り変わる県域
    2014.9.4
    W−@近代の砺波『明治維新』
    ・新しい政治 1868年(明治元)、年号が明治と改まって、五箇条の御誓文のもとに、新しい政治が行なわれることになった。まず政治は、1869年(明治2)に版籍奉還(はんせきほうかん)を行ない、藩主が治めていた土地(版図)と人民(戸籍)とを朝廷に返させた。さらに1871年(明治4)、…
  • 持高からみた農民構成の変遷(太田村の場合)
    2014.9.4
    V−D近世の砺波『ゆらぐ封建社会』
     農民を土地に定着させ、毎年の年貢収入を安定させようと実施された改作法であったため、特に農民が土地を売買することを厳しく禁じた。藩では1615年(元和元)に土地売買の禁止令を出し、また寛永に入ってからも土地売買無効令を出している。しかし、農村にもだんだんお金がゆきわたるようになる…
  • 砺波平野の町
    2014.9.4
    V−C近世の砺波『杉木新町の成立と発展』
     1585年(天正13)、越中に入国した前田利長は、農業政策を進める一方、産業政策にも力を入れた。天正から慶長にかけて(1585〜1606)、北野の市(現城端町)や篠河(ささがわ)の市(現福岡町)、そして、立野の市(現高岡市)などを許可し、参加者を制限しない庶民の自由な交易を発展…
  • 農具
    2014.9.4
    V−B近世の砺波『農業技術の進歩と庶民の暮らし』
     せんばごき、土臼(どろうす)、唐箕(とうみ)、千石とおしなどの便利道具が使われるようになったのは、江戸時代中期の元禄年間(1688〜1703)のころであった。このころになると、新田開発なども限界に達し、生産を高めるためには、決められた広さの耕地でできるだけ多くの米を収穫したり、…
  • 上芹谷野段丘 下芹谷野用水
    2014.9.4
    V−A近世の砺波『庄川の治水と新田開発』3〜5
     庄東山地は、谷間谷間に古くから人が住みついて、近世初期にはほぼ開拓が終わっており、特に増山(旧)は、増山城の城下として寺や諸職人が集まり、小さいながらも城下町を形作っていた。ただ、芹谷野の広い段丘だけが水利にめぐまれないため、そのままにされていた。しかし、藩政時代に入って未開の…
  • 庄川の出口付近
    2014.9.4
    V−A近世の砺波『庄川の治水と新田開発』1・2
     庄川が現在の河道に固定し、統一した堤防が築かれて、その動きがおさえられたのは、近世に入ってからのことである。それ以前は、庄川町金屋付近から幾筋もの分流となり、扇を拡げたように砺波平野へ注いでいた。奈良時代には、ほぼ北西に流れて小矢部川に合流していたようである。歴史時代に入ってか…
  • 十村制度
    2014.9.4
    V−@近世の砺波『農村支配のしくみ』3・4
     藩は改作法を実施するために農政の組織を整備した。藩政のはじめのころから村々に肝煎・長百姓(おとなびゃくしょう)・組合頭などの村役人がおかれ、数十か村を一組として十村肝煎が任命されていた。身分は農民であったが、藩の下部機構として郡内を支配していた。改作法が実施にうつされる過程にお…
  • 前田利長肖像画 魚津市友道 高畠定盛氏蔵
    2014.9.4
    V−@近世の砺波『農村支配のしくみ』1・2
     1585年(天正13)は、砺波の地にとって、時代の流れを大きく変えるできごとが起きた年であった。一つは砺波郡が前田氏の領有になったこと。いま一つは大地震のために庄川の河道の一部が東に移り、庄川が安定し、川跡の開発の基盤ができたことである。 前田氏が砺波郡を支配した初めのころは、…